いよいよ佳境に入ります。
「安政四年五月、森の五郎の養子太市は石川村の賭場の近くで、縄張り争いがもとで
堀越の藤左エ門、幡鎌の周太郎、新居の源吉、他一人の子分のために殺害された。」
「太市殺しの一件は、単なる賭場のいざこざで、太市の死んだのは喧嘩際中に卒中で
倒れたのだと言い触らした。それには幡鎌の周太郎の親爺が番人で、役人に袖の下を
使ったりしたので、事件は簡単に落着し、藤左エ門が喧嘩兇状で入牢して、百叩きの上
放免されただけで落着したが、森の五郎はそれ以降、うつうつとして楽しまずめっきり
老衰した」
「太市」を殺した幡鎌の周太郎という男は、渡世人らしくもない細骨のやさ男で、腕が
立つという方でもなかったが、甲州黒駒の勝蔵の子分の大岩・小岩の兄弟分というこ
とで、幅を利かせておった。森の天満下に周太郎の兄弟分で、新屋の虎蔵(俗に新虎
という)という男があった。周太郎がとかく大岩・小岩を笠に着て、新虎の火場所を
荒らすので、両人の仲は段々気まずいものになっていった。その新虎が森の太市と
親しい間柄だったので、太市が殺されると、太市の子分八五郎を連れて、清水港に
次郎長を訪ねた。新虎は清水の次郎長とは面識がなかったが、新虎の兄弟分に森の
川忠という伯楽がおって、これが気前の良い男だったから、次郎長とも交際し、その
子分たちが年中ゴロゴロと川忠の所で遊んでいた。そんな縁故から新虎は川忠の紹介
で次郎長に遭ったのである。」
「次郎長は安政二年の暮から旅に出て、丹波の福知山の銀兵衛の所に、長いこと逗留し
清水に帰ったのは安政五年の正月であったから、森の太市が殺されたのは、その留守
中の出来事だった。
次郎長は弘化元年二十五歳の冬、三州からの帰途、森の五郎のところに草履を脱いで
暫く厄介になった恩義も有るので、新虎はそれもこれも承知のうえで、次郎長が旅カ
ら帰ったと聞いて出かけた。」
「次郎長は新虎の頼みをいれて八五郎を子分とした。新虎とは兄弟分の盃を交わす。
時に次郎長39歳}
「安政五年、森町天宮 萬松寺住職殺害され、寺は放火により全焼、犯人は巳の助
の子分で重五郎他一人という。(世に萬松寺事件という)」
「重五郎は森の下宿の番人伝八と、三倉の番人喜二郎のため捕らわれ、森の牢屋に
於いて十一月牢死した。」
「巳之助は萬松寺事件の科で八丈島へ流されたが。江戸伝馬町の獄舎に差し戻され
万延元年九月十一日鈴ヶ森の刑場で斬首された。享年52歳。墓は女房の三千が
慶応三年12月23日に病没したので、明治になってから、両人の墓を建てた。
山梨の用福寺にあり、戒名は古梅良香信士である。」
「森の五郎は、萬松寺事件が片付くと、谷口に引き込んで隠居してしまった。精神
的にも、肉体的にも苦労がかさなって憔悴し、安政五年二月八日病没した。戒名は
即心自性信士である。」
「安政六年秋、幡鎌の周太郎が旅人のために殺された。周太郎が殺されたのは、
新屋の虎蔵が、周太郎と顔見知りのない次郎長の子分を使い、巧みに旅人に
化けさせて、森の太市の敵討をしたのだと、森町界隈で評判になったが、犯人は
さっぱり上がらなかった。新屋の虎蔵は、次郎長の弟分になって。森町付近の
次郎長身内と親しく交際し、大和田の友蔵とも縁がつながり段々良い顔になった」
「文久三年、三月三日。新虎は大岩・小岩らの一味五人のため殺された。」
「同三年六月五日、次郎長一党は、三州平井の雲風亀吉方に隠れていた黒駒の勝蔵の
大岩・小岩ほか五人の一味を襲い、五人の首級をあげ、新虎の仇を打つ。」
「新屋の虎蔵が死んだとき、次郎長は十五両の香典を包んで、これで何か商売をやり
なさいと遺族を慰めた。今天宮に残る新屋旅館はその末だということだ。」
写真は新屋旅館です。10/6
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