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2020年08月24日06:42

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原爆関連その6(08月17日15時台(鹿児島)〜08月0日時台())

対馬丸撃沈から76年 慰霊祭
08月22日 14時32分

太平洋戦争中、沖縄から疎開する子どもたちを乗せた学童疎開船「対馬丸」が、アメリカ軍に撃沈されてから22日で76年となります。
那覇市では、遺族や生存者が参列して慰霊祭が行われました。
「対馬丸」は76年前の昭和19年8月22日、沖縄から疎開する子どもたちなどを乗せて長崎に向かう途中、鹿児島県の沖合でアメリカ軍の潜水艦に撃沈され、1484人が犠牲となりました。
例年、この日にあわせて、那覇市にある慰霊塔の前で慰霊祭が行われていますが、ことしは新型コロナウイルスの感染拡大のため、規模を縮小して行われました。
遺族や生存者などの参列者は全員で黙とうしたあと、慰霊塔に向かって手を合わせ、犠牲者を悼んでいました。
また、「対馬丸」に一緒に乗り込んでいた旧日本軍の部隊の司令部があった広島市でも、同じ時間帯に慰霊祭が行われ、その様子がオンライン上に映し出されていました。
母と姉を亡くし、自身も「対馬丸」に乗船していた照屋恒さん(80)は「亡くなった方は、ずっと昔の年齢のままです。これからも戦争のない世界が続いてほしいです」と話していました。
姉を亡くした津波古敏子さん(88)は「私も対馬丸に乗る予定でしたが、結局、姉だけが乗船し亡くなりました。安らかに見守っていてくださいとお祈りしました」と話していました。
https://www.nhk.or.jp/lnews/okinawa/20200822/5090011226.html

被爆者眠る寺で現代アート展
08月21日 19時16分

車いすで世界を回って核兵器廃絶を訴えた被爆者、渡辺千恵子さんの墓がある長崎市の延命寺で、平和をテーマにした現代美術の作品展が始まりました。
この作品展は、爆心地にある「ナガサキ誓いの火」の灯火台のデザインなどを手がけた長崎大学の井川惺亮名誉教授が企画したもので、長崎市の被爆75年記念事業の一つにもなっています。
原爆で下半身不随になりながら、車いすで世界を回って核兵器廃絶を訴え、「ナガサキ誓いの火」を持ち帰った被爆者渡辺千恵子さんの墓がある会場の長崎市寺町の延命寺には、4点の現代美術作品が展示されています。
このうち、井川さんの絵は、明るい色彩で描かれていて、新型コロナウイルスに向き合う医療従事者への感謝の気持ちなどが込められ、疫病から人々を守るとの言い伝えがある妖怪「アマビエ」もイメージできるということです。
また、ポルトガルの芸術家ラランジョの作品は、修行僧が描いたような墨絵で精神活動について表現したということです。
21日は井川さんも会場を訪れ、来場者に対し「私は被爆者ではないが、アートについて多様な意見を重ねるように平和についても考えてほしい」などと呼びかけました。
この作品展は23日まで開かれていて、観覧には事前の予約が必要です。
https://www.nhk.or.jp/lnews/nagasaki/20200821/5030008895.html

戦争について考えて 特攻資料展
08月20日 11時41分

若くして戦死した特攻隊員たちの顔写真や遺書などを通して、若い世代にも戦争について考えてもらおうという資料展が宮崎市で開かれています。
会場の宮崎大学附属図書館には、いまの宮崎空港の前身で、戦時中は旧日本軍の基地だった「赤江飛行場」から出撃した特攻隊の、資料や写真など100点以上が展示されています。
この中には「赤江飛行場」から出撃した隊員の顔写真を並べたパネルがあり、若くして命を落とした隊員たちの存在を実感することができます。
また隊員たちの遺書も紹介されています。
当時18歳だった松尾巧さんの遺書には、「家内揃っていつまでも幸福に暮らしてください」と、残された家族への思いがつづられています。
南九州の歴史の研究などを行っている、南九州文化研究会の稲田哲也さんは「戦後75年を迎え、戦争が教科書の中の出来事になりつつある。若い世代にも日頃暮らしているこの宮崎も戦場だったということを肌で感じてほしい」と話していました。
この資料展は、宮崎大学附属図書館で10月15日までの平日に開かれています。
https://www.nhk.or.jp/lnews/miyazaki/20200820/5060007096.html

B29残骸発見 遺族から謝意
08月17日 16時49分

75年前の終戦の年に、日本海軍の攻撃を受けて佐伯市の山奥に墜落したアメリカのB29爆撃機の部品を、地元の高校生が発見しました。
この取り組みは、墜落したB29の搭乗員の遺族にも伝えられ、感謝を示すメールが届いたということです。
B29の部品を発見したのは、佐伯鶴城高校の2年生の生徒3人です。
佐伯市の宇藤木地区には昭和20年、終戦の年に日本海軍航空隊の攻撃を受けてB29が墜落しましたが、墜落した山中には、いまも機体の破片が残っているとみられています。
3人は、授業の一環で去年から部品の捜索を行い、爆撃機の外壁の破片とみられる部品などおよそ20点を発見したことから17日、佐伯市役所を訪れて田中利明市長に成果を報告しました。
この中で、生徒の1人の栗矢涼帆さんは、墜落現場までは整備されていない険しい山道を歩いて向かい苦労したことや、部品を実際に手に取って戦争の恐ろしさを肌で感じたことなどを説明していました。
また、今回の3人の取り組みは、捜索に同行した歴史研究家の男性を通じて墜落したB29の搭乗員の遺族にも伝えられ、感謝を示すメールが届いたということです。
栗矢さんは「遠いアメリカのご遺族に私たちの活動を喜んでもらえてうれしいです。2度と戦争が起こらないよう今回学んだことを地域の人たちにしっかり伝えていきたい」と話していました。
https://www.nhk.or.jp/lnews/oita/20200817/5070007710.html

戦争時住民避難を追体験 石垣
08月17日 16時14分

沖縄戦の際にマラリアがまん延する地域への避難を軍に命令された住民たちの苦難をしのぼうと、16日、石垣島の人たちが避難所までの道のりを歩いて追体験しました。
追体験を行ったのは、石垣市の石垣地区の住民40人あまりで、16日は、沖縄戦当時の昭和20年6月に軍の命令で地域のお年寄りや子どもたちが避難させられた地区内にある小高い山、「前勢岳」の山中を目指しました。
参加者は最高気温が33度を超える暑さの中、坂道を30分ほど歩いて、避難所があったとされる場所を目指しました。
ようやく到着した参加者は、1分間の黙とうを行ったあと、実際に避難を経験した地域のお年寄り3人から話を聞きました。
当時、避難所の周辺は、マラリアを媒介する蚊が生息する地域で、避難所にいた石垣英忠さん(88)は「マラリアにかかった人たちの頭に水をかけ続けたことを覚えています。戦争をしない努力をすることが大切だと思います」と話していました。
参加した小学2年生の男の子は「歩くのがきつくてもうダメだと思いました。昔の人もきつかっただろうなと思いました」と話していました。
https://www.nhk.or.jp/lnews/okinawa/20200817/5090011176.html

「芙蓉部隊」の歴史残す資料展示
08月17日 15時31分

太平洋戦争末期に特攻作戦を行わず、夜間攻撃など独自の戦術をとり続けたとされる航空隊、「芙蓉部隊」に関連する資料の展示が曽於市で始まりました。
「芙蓉部隊」は旧海軍の航空隊で、太平洋戦争末期には、曽於市大隅町岩川に飛行場を構えて主に夜間の攻撃を繰り広げました。
当時の日本軍では、爆弾を積んだ航空機で戦艦に体当たりするいわゆる「特攻作戦」が行われていたものの、部隊の指揮官、美濃部正少佐はこれに異議を唱えて認められ、この部隊では終戦まで特攻が行われなかったとされています。
今回の展示は曽於市教育委員会が戦後75年にあわせて会場の「市埋没文化財センター」に常設コーナーとして設けたもので、隊員の写真などの資料、およそ100点が紹介されています。
なかには隊員が着用した装備品も展示されていて、ライフジャケットの胸のあたりには、攻撃において利用された戦闘機「彗星」の名前から「彗星夜戦」と記されています。
また、幅が30センチほどもある大型のカメラも展示されていて、このカメラは夜間の攻撃中などにその状況を記録に残すために戦闘機に乗り込んだ隊員が利用していたということです。
隊員とかつて親交があり、部隊の歴史を伝える活動を行っている持田初穂さんは「歴史の証言者が少なくなり記憶が薄れていく中で、戦争があったという事実や命をかけて戦った人の気持ちを少しでも知ってもらいたい」と話していました。
この展示会は市埋蔵文化財センターで今年いっぱい続けられます。
https://www.nhk.or.jp/lnews/kagoshima/20200817/5050011518.html

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