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2020年08月12日23:52

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ニュース(原爆関連その3)(08月06日18時台(広島)〜08月09日11時台(長崎))

カズオイシグロさんらメッセージ
08月09日 11時04分

長崎市は、被爆75年となることしの平和祈念式典に向けて寄せられた、地元・長崎市出身のノーベル賞作家、カズオ・イシグロさんらのメッセージをホームページに公開しました。
カズオ・イシグロさんは、英語でメッセージを寄せ「きょうは恐ろしい出来事の記念日です。しかし、あの日長崎の人々を襲った苦しみが75年間繰り返されなかったという節目の日でもあります。現在の困難な時代にあっても、これまで安全に過ごすことができたのは国際協力と国際理解のおかげであり、その重要性を忘れてはなりません。私たちは大きな危険にさらされ続けていること、そして人間の命こそが至上の価値を持つものであることを心に留めましょう」と記しています。
また長崎市の栄誉市民で歌手のさだまさしさんは、被爆者だったみずからの叔母のことばを紹介しつつ「原子爆弾だけが悪ではなく。本当の悪は人の心の中にて、次々と兵器を考え出すのです。武器で平和を買うことなど、絶対にできないのです。世界中から戦争と核兵器がなくなる日を祈っています」というメッセージを、動画でも寄せています。
このほか、姉妹都市のアメリカ・セントポール市の市長なども「平和への決意を新たにする」などとしたメッセージを寄せました。
https://www.nhk.or.jp/lnews/nagasaki/20200809/5030008736.html

高校生が爆心地で「人間の鎖」
08月09日 10時11分

長崎市の爆心地公園では、50人ほどの高校生らが爆心地を示す碑の周りを囲む「人間の鎖」を作り、被爆者の思いを受け継いで核なき世界を目指していくことを誓いました。
9日朝7時ごろ、長崎市の爆心地公園には、核兵器廃絶を求める署名を国連へ届ける活動を行う「高校生平和大使」や、署名活動を行う高校生らあわせておよそ50人が集まりました。
例年は全国や海外から100人あまりの高校生が集まりますが、ことしは新型コロナウイルスの影響で参加者は県内と熊本県の高校生に限られ、マスクやビニールの手袋を着けるなどの対策がとられていました。
参加者たちは、爆心地を示す「原爆落下中心地碑」を囲む「人間の鎖」をつくりました。
これまでは手を直接つないできましたが、ことしはリボンの端と端をもって碑を囲みました。
そして、ことしの高校生平和大使に選ばれた6人が抱負を述べ、このうち長崎東高校2年の鹿摩瑠花さんは「被爆者の高齢化が進むなかで、わたしたち若者の活動はより大きな意味を持ち始めています。コロナ禍で、活動は制限されていますが、いましかできないことを見いだしてがんばります」と語りました。
参加した長崎日本大学高校1年の川端悠さんは「75年前に亡くなった人のことを想像しながら、いままでに聞いた被爆者の話を思い出して、苦しみを分かち合う気持ちで鎖をつくりました。言葉を大切にして、被爆者の思いを引き継いでいきたいです」と話していました。
https://www.nhk.or.jp/lnews/nagasaki/20200809/5030008735.html

浦上天主堂 早朝ミサで祈り
08月09日 10時08分

原爆で破壊され、戦後再建された長崎市のカトリック教会、浦上天主堂では、早朝からミサが行われ、原爆の犠牲者に祈りをささげました。
爆心地からおよそ500メートル北東にある浦上天主堂は、原爆の爆風とその後の火災によって、一部の壁を残して倒壊し、周辺の地域に住んでいたカトリックの信者1万2000人のうち、およそ8500人が犠牲になりました。
被爆から75年の9日、昭和34年に再建された聖堂では、午前6時からミサが行われ、例年通りおよそ250人が参列しました。
ミサでは、宮原大地神父が「犠牲となって亡くなった方々を改めて心にとめ、永遠の安息を心から願います。世界で長崎の悲劇が繰り返されることのないよう、75年の節目の年、世界との連帯をさらに進めるという決意を新たにしたい」と呼びかけました。
参列した人たちは、神父のことばに耳を傾け、原爆の犠牲者に祈りをささげていました。
母親が被爆したという長崎市の72歳の男性は「犠牲者が天国で安らかに眠って欲しいという思いで祈りました。とにかく核兵器をなくしてほしいです」と話していました。
https://www.nhk.or.jp/lnews/nagasaki/20200809/5030008734.html

長崎へ「ピースウォーク」出発
08月08日 13時18分

9日の「長崎原爆の日」を前に、長崎市の爆心地に向けて平和を願いながら歩いて行進する「ピースウォーク」が、8日朝、佐賀県武雄市を出発しました。
ことしのピースウォークには地元、武雄市のほか、福岡市や熊本市などの小学4年生から71歳までの20人が参加しました。
武雄温泉楼門の前では出発式が行われ、参会者一人ひとりが、「世界の平和を願って歩きます」などと決意を述べたあと、午前7時に出発しました。
コースは佐賀県の嬉野市をへて長崎県に入り、大村市や諌早市などを通って、長崎市の爆心地を目指す85キロの道のりで、5キロごとに休憩をとります。
そして、あす・8月9日の朝には長崎市に入り、原爆が爆発した時刻の午前11時2分に黙とうをささげる予定です。
2回目の参加という白石町の60代の男性は、「被爆地・長崎の人々の平和への思いを胸に、核廃絶を願いながらしっかり歩き抜きたいと思います」と話していました。
企画した武雄市の陶芸家、山口忠俊さん(70)は、「ことしは、新型コロナウイルスの影響で開催を悩みましたが、参加する人の思いを考えて、実施を決めました。核兵器の廃絶を願い、戦争のない平和の大事さをかみしめながら歩きたい」と話していました。
https://www.nhk.or.jp/lnews/saga/20200808/5080006668.html

平和祈念式典前に「献水」くみ
08月08日 11時16分

原爆投下から75年となる9日の長崎原爆の日を前に、水を求めながら亡くなった犠牲者に水をささげる「献水」という儀式に向け、子どもたちが長崎市の平和公園の泉で水をくみ上げました。
8月9日の長崎原爆の日に行われる平和祈念式典では、原爆の熱線を浴び、水を求めながら亡くなった犠牲者を慰霊するために、祭壇に水をささげる「献水」の儀式が行われます。
9日の式典を前に、「献水」で使う水が長崎市内の5か所でくみ上げられ、このうち、平和公園にある「平和の泉」では献水を担当する市内の小中学生と高校生の代表3人が水をくみ上げました。
3人は、ひしゃくを使って丁寧に水をおけにくみ上げ、最後に全員で一礼していました。
長崎商業高校2年の本村凛音さん(16)は、「今は平和な世の中ですが、75年前には水を求めながら亡くなった人がいる。安らかに天国で眠っていただけるよう心を込めて献水したいです」と話していました。
平和祈念式典は、新型コロナウイルスの影響で参列者を例年の10分の1程の500人ほどに減らして、9日午前10時45分に開式します。
※リは「凛」の「示」が「禾」。
https://www.nhk.or.jp/lnews/nagasaki/20200808/5030008730.html

戦時中の暮らしぶり紹介 資料展
08月07日 15時11分

戦時中の古い写真を通して、当時の暮らしぶりを紹介する資料展が、築上町の博物館で開かれています。
船迫窯跡公園体験学習館で行われているこの資料展は築上町教育委員会が開いていて、戦時中の古い写真や生活用品などおよそ140点が展示されています。
このうち、旧制椎田高等実業女学校の昭和14年の卒業アルバムには、戦勝祈願の旗行列や、食料不足を解消するため行われた農業奉仕の写真があり、日中戦争が長期化する中、国民生活に影響が出始めたことを伺わせています。
また、昭和17年の写真には、戦闘機や弾丸などを製造するための金属が不足し、寺の仏具や梵鐘までが供出された様子が写っています。
訪れた人たちは「古い資料を大事に保管している人が多いのに驚いた」とか、「戦時中の生活の様子が身近に感じられ、勉強になった」などと話していました。
築上町教育委員会文化財保護係の馬場克幸係長は「当時の生活ぶりを知ってもらうとともに、散逸するおそれのある資料の収集にも役立てていきたい」と話していました。
この資料展は来月13日まで、築上町の船迫窯跡公園体験学習館で開かれています。
https://www.nhk.or.jp/lnews/kitakyushu/20200807/5020006694.html

爆心地に被爆者の声紋描く
08月07日 14時00分

長崎で被爆した12人の証言をもとにその声の強弱を示す声紋のかたちが、海外を拠点に活動する芸術家によって長崎市の爆心地の地面に描かれ、公開されています。
「声紋源場」と名付けられた取り組みは、海外を拠点に活動する芸術家、竹田信平さんが長崎市の被爆75年記念事業のひとつとして提案しました。
竹田さんは南北アメリカに移り住んだ被爆者の証言を集めていて、先月からこれまで録音してきた長崎の被爆者の証言をもとに、声の強弱を示す声紋のかたちを長崎市の爆心地公園の地面に描いてきました。
被爆者12人分、合わせて75本、距離にしておよそ1.1キロの声紋のかたちが完成しました。
もととなった被爆者の証言は、スマートフォンなどの専用アプリを使って聞くことができます。
この声紋を見た男子高校生は「被爆者の声を世界中に伝えようという思いが伝わり、感動しました」と話していました。
竹田さんは「被爆者と会って一番覚えているのは声で、それを素直に表現したかった。爆心地公園に来た人に当時のことを想像しながら、この作品を体験してほしい」と話しました。
描かれた声紋は今月10日まで、長崎市の爆心地公園で公開されています。
https://www.nhk.or.jp/lnews/nagasaki/20200807/5030008724.html

平和祈念式典のリハーサル
08月07日 11時29分

長崎市の平和公園で9日開催される平和祈念式典のリハーサルが行われ、被爆者や遺族の代表などが式典の手順を確認しました。
長崎市の平和公園では、9日の長崎原爆の日に開催される平和祈念式典のリハーサルが午前9時半から行われ、被爆者や遺族の代表などおよそ90人が参加しました。
リハーサルでは本番も司会を務める高校生2人が進行し、この1年間に亡くなった被爆者など3406人の名前を新たに加えた名簿を「奉安箱」に納める手順や、水を求めて亡くなった犠牲者を追悼するため祭壇に水をささげる、「献水」の儀式の進め方を確認しました。
また、被爆者の代表として「平和への誓い」を述べる深堀繁美さんも参加し、手順を確認しました。
ことしの式典は新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、参列者の数を例年の10分の1程度の500人ほどに減らして行われます。
また長崎市の田上市長は平和宣言の中で、新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐのと同じように、核兵器についても世界中の人々が当事者意識を持つことが重要だと訴えることにしています。
献水を行う被爆者の三田村静子さんは「原爆のような被害を2度と繰り返してはいけない。75年が経過し、原爆の恐ろしさが風化している中、これからも核廃絶を訴えていきたい」と話していました。
https://www.nhk.or.jp/lnews/nagasaki/20200807/5030008719.html

原水協と原水禁がOLで世界大会
08月07日 08時37分

「原爆の日」の6日、原水協=原水爆禁止日本協議会と原水禁=原水爆禁止日本国民会議はそれぞれオンラインで世界大会を開き、核兵器廃絶に向けた取り組みを推し進めると訴えました。
このうち原水協は、新型コロナウイルスの感染拡大を防ぐため県内20か所の会場に分かれたうえで、オンラインで大会を開き、広島市東区の会場には40人余りが集まりました。大会では、両親を原爆で亡くし、自らも被爆した山田寿美子さん(77)が「両親を失って安心して暮らせる環境はなく、自殺を考えたことも一度や二度ではありませんでした。そのむごい核兵器の脅威が近年増しています。核兵器廃絶に向け、今後も取り組みを続けます」と時折、声をつまらせながら訴えました。そして、▼核兵器の非人道的な結末を広く世界に知ってもらう活動を強化することや、▼すべての国に核兵器禁止条約への参加を求めることなどを盛り込んだ「主催者声明」を発表しました。また原水禁のオンライン大会では、自らも長崎で被ばくした川野浩一議長が「近年、核兵器の脅威は格段に増し、危険な状況と言わざるをえない。世界で唯一の戦争被爆国として核廃絶のリーダーとなる、その希望を失ってはいけない」と呼びかけました。その上で、▼核兵器禁止条約に日本も署名・批准するよう求めていくとともに、▼延期されているNPT=核拡散防止条約の再検討会議に向け、海外の団体などと課題を共有し核兵器廃絶の動きを前進させるなどとするアピールを採択しました
https://www.nhk.or.jp/hiroshima-news/20200807/4000008509.html

カープ 球場で平和の光ともす
08月07日 08時30分

プロ野球のカープは原爆の日の6日夜、広島市の本拠地、マツダスタジアムで平和と鎮魂の思いを込めて、夜空を5色の光で照らす取り組みを行いました。
原爆被害からの復興の象徴として発足したカープは、広島の歴史について考えてもらおうと毎年、原爆の日に県外出身の新入社員が企画し、平和を願う催しを行っています。原爆が投下されて75年となったことしは、マツダスタジアムで平和と鎮魂の思いを込めて夜空を光で照らす取り組みを行いました。5色の光には▼平和を表現する「白」や、▼安らぎと草木を表す「緑」などそれぞれに意味を持たせたということで、社員たちは光を見つめながら平和への思いを新たにしていました。企画した奈良県出身でカープ商品販売部の室田和彦さんは「8月6日について勉強したいという思いで取り組んだ。これまで原爆について深く考えたことはなかったが、広島の球団職員としてこれから毎年考えると思うし、来年以降も考えるきっかけを作っていきたい」と話していました。球団は7日夜、マツダスタジアムで行われる阪神との試合を、平和を願う「ピースナイター」として開催し、選手たちは、原爆ドームと折り鶴がデザインされたワッペンをつけて試合に臨みます。
https://www.nhk.or.jp/hiroshima-news/20200807/4000008508.html

オンラインで灯ろう流し
08月07日 08時28分

毎年8月6日の原爆の日に広島市で行われてきた灯ろう流しが、今年は新型コロナウイルスの影響で一般市民の参加が中止となったことから、インターネット上の仮想空間で再現し大型のスクリーンで上映する催しが行われました。
広島市の原爆ドームの前を流れる元安川では、犠牲者の霊をなぐさめようと原爆の日の夜に灯ろう流しが行われてきましたが、ことしは新型コロナウイルスの影響で一般市民の参加が中止となりました。
このため原爆ドーム近くの「おりづるタワー」などが主催し、インターネット上の仮想空間で灯ろう流しを再現し大型のスクリーンで上映する催しが6日夜、行われました。灯ろう流しには誰でも参加することができ、特設サイトから「核兵器の無い世界になりますように」といった平和へのメッセージを打ち込んだ灯ろうを仮想空間に流します。
6日夜は映像が元安川近くの旧広島市民球場跡地に設置された大型のスクリーンに映し出され、会場を訪れた人たちは仮想空間を静かに流れる灯ろうの明かりに祈りをささげていました。
父親が被爆した、広島市佐伯区から訪れた50代の男性は「被爆2世として被爆75年の節目としてとても大事な年です。オンラインという普段と違う形ですが平和への思いをこめてとうろうを流しました」と話していました。特設サイトは8月31日まで設けられ、無料で参加することができます。
https://www.nhk.or.jp/hiroshima-news/20200807/4000008507.html

沖縄市役所で「原爆と戦争展」
08月07日 07時19分

6日、広島は戦後75年目となる原爆の日を迎えましたが、沖縄市では「原爆と戦争展」が開かれていて、戦争の悲惨さと平和の尊さを伝えています。
この展示会は、戦争について語り継ぐ活動をしている市民グループが、毎年開いているものです。
会場の沖縄市役所1階の展示コーナーには、日本が第2次世界大戦に至った経緯の説明や、原爆が投下されたあとの広島、長崎の写真、さらに被爆者の証言などをまとめたパネルおよそ160点が展示されています。
このうち第2次世界大戦のコーナーでは、アメリカ軍の空襲によって焼き払われた東京や大阪などの都市の様子や、沖縄戦の写真が展示されています。
また原爆に関するコーナーでは、原爆投下によってがれきと化した広島と長崎の街の様子のほか、ひどいやけどや髪が抜け落ちるなど後遺症にさいなまれる住民の写真などが、証言とともに展示されています。
展示会を開いた市民グループのメンバーで、広島で13歳のときに被爆した雛世志子さん(88)は「町じゅう火の海で死体であふれ、ことばにできないくらい悲惨な状況で地獄のようだった。戦後生まれの世代に少しでも知ってもらいたい」と話していました。
この展示会は沖縄市役所1階の展示コーナーで、7日午後5時まで開かれています。
https://www.nhk.or.jp/lnews/okinawa/20200807/5090011072.html

多聞院で郵便局職員などの慰霊祭
08月06日 21時07分

75年前、原爆で壊滅した郵便局の職員などの慰霊祭が6日、広島市の寺で営まれました。
75年前の昭和20年、広島市にあった当時の「広島郵便局」は、地上3階、地下1階建てで、「1に県庁、2に郵便局」といわれるほどモダンな建物でしたが、爆心地の真下となり、建物にいた職員や学徒動員の女学生などあわせて288人が犠牲になりました。
慰霊祭は、爆心地から1.7キロ余り離れた広島市南区比治山町の多聞院寺で営まれ、日本郵便の関係者や遺族など30人が参列し、犠牲になった人たちを追悼しました。
原爆が投下されたあと生き残った職員たちは5日後から仮の施設で業務を再開し、通帳や印鑑などがなくても貯金が払い出せる「非常払い」に対応するなど復興を支えました。
被爆直後から郵便局の再建に奔走した父親の意志を継ぎ、郵便局員を務めていた廣藤武士さん(81)は「平和の尊さ、ありがたさがいちばんで、高齢化や少子化が進むなか、みんなの心が荒れないような、心安らかな世の中が続いてほしい」と話していました。
https://www.nhk.or.jp/hiroshima-news/20200806/4000008506.html

コロナで広島戻れず都内で祈り
08月06日 18時32分

都内では新型コロナウイルスの影響で広島への訪問を諦め、自宅で祈りをささげる被爆者の姿が見られました。
広島市の出身で東京都稲城市に住む濱住治郎さんは父親の�霆酸詰困気鵑鯒�心地からおよそ500メートルの場所で亡くしました。
濱住さんは母親のおなかの中で被爆した胎内被爆者です。
母親や姉は帰ってこない父親を探して焼け跡を何日も探し歩きましたが遺骨はなく、見つかったのはベルトのバックルと熱線で溶けた鍵の束、それにがま口の財布の金具だけだったということです。
濱住さんには直接の被爆の記憶はありませんが父親を奪った核兵器のおそろしさを伝えなければならないと日本被団協・日本原水爆被害者団体協議会の事務局次長として運動を続けています。
しかし、被爆から75年の節目となることしは新型コロナウイルスの影響で活動に制約を受けています。
ことし4月からは世界の核軍縮について話し合う5年に1度のNPT・核拡散防止条約の再検討会議にあわせてアメリカを訪れ、原爆展や証言活動を行うことにしていましたが、会議が来年に延期となりました。
さらに毎年8月6日に参列してきた広島市の平和公園での平和記念式典も、新型コロナウイルスの影響で参列者の座席数が例年の1割に満たない規模まで縮小され、濱住さんは感染のリスクも考慮して東京から広島に向かうことを諦めました。
6日は東京都稲城市の自宅で式典のテレビ中継を見つめ、原爆投下の午前8時15分には立ち上がって黙とうをささげていました。
浜住治郎さんは「広島に行けなかったことは残念ですが、安らかに眠ってくださいという父親(浜住正雄さん)への思いは伝わったと思います。子どもたちが平和への誓いで未来に核兵器は必要ないとはっきり言ってくれて励まされました。コロナの時代であっても一刻も早い核兵器廃絶に向けて決意を新たにしました」と話していました。
濱住さんが所属する日本被団協などでは新型コロナウイルスの影響を考慮して新たにオンラインによる証言会を始めています。
濱住さんは「コロナの時代でもできること、やらなければならないことがあるという思いが強いです。オンラインによる証言会で新たな出会いや発見があり、活動に力を与えてくれています。もちろん直接の対話が一番必要ですが、それができるようになるまではオンラインを使いながら証言をしていきたい」と話しています。
https://www.nhk.or.jp/hiroshima-news/20200806/4000008505.html
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