「慰霊の日」前に 恩納村で沖縄戦のシンポジウム
06月13日 07時08分
今月23日の「慰霊の日」を前に、12日、恩納村で村内での沖縄戦に焦点をあてたシンポジウムが開かれ、当時の過酷な状況が紹介されました。
シンポジウムは、恩納村が、体験者への聞き取り調査や新たな資料に基づき、沖縄戦に焦点をあてた村史を発刊したことを記念して開かれ、村史の編集に携わった専門家4人が登壇しました。
この中で、恩納岳では旧日本軍と避難した住民がともに過酷な状況に陥ったことが紹介されました。
具体的には、10代の男子が中心の「護郷隊」と呼ばれるゲリラ部隊が拠点にし、上陸してきたアメリカ軍に徹底抗戦を試みるも、最終的には四方を囲まれ逃げるに至ったことや、避難した多くの住民はアメリカ軍の投降の呼びかけに応じることができず、中には4か月ほどにわたって山の中で過ごす人がいたことなどが紹介されました。
シンポジウムのあと、村史の編集にあたった元沖縄国際大学教授の吉浜忍さんは「恩納村は戦場だった。沖縄戦は継承していかなければならず、広く読まれないといけない」と話し、村史を平和学習などに活用してほしいと呼びかけました。
https://www.nhk.or.jp/lnews/okinawa/20220613/5090018683.html
沖縄 平和祈念像 慰霊の日を前に「浄め」の作業
2022年6月9日 19時21分
太平洋戦争末期の沖縄戦の犠牲者を追悼する今月23日の「慰霊の日」を前に、最後の激戦地となった沖縄県糸満市で、平和への願いを込めて建てられた平和祈念像のほこりを拭き取る「浄め」の作業が行われました。
糸満市摩文仁の沖縄平和祈念堂の中にある平和祈念像は、沖縄戦の犠牲者の追悼と平和への願いを込めて昭和53年に建てられた高さ12メートルの像です。
毎年「慰霊の日」を前に平和祈念像をきれいにする「浄め」の作業が行われていて、9日は管理する職員など8人が参加しました。
参加者ははしごを使って像の上にのぼり、表面に傷がないか確かめながら布でほこりを拭き取っていました。
平和祈念像の制作に携わった漆工芸の専門家、糸数政次さん(67)は「ウクライナなどで戦争が起きているので日本だけではなく世界の平和を願って作業しました」と話していました。
沖縄平和祈念堂では「慰霊の日」の前日の今月22日に沖縄全戦没者追悼式の前夜祭が行われることになっています。
https://www.nhk.or.jp/news/html/20220609/k10013664871000.html
慰霊の日を前に平和祈念像を浄める作業 ほこりを拭きとる
06月09日 16時46分
太平洋戦争末期の沖縄戦の犠牲者を追悼する今月23日の「慰霊の日」を前に、最後の激戦地となった沖縄県糸満市で、平和への願いを込めて建てられた平和祈念像のほこりを拭き取る浄めの作業が行われました。
糸満市摩文仁の沖縄平和祈念堂の中にある平和祈念像は、沖縄戦の犠牲者の追悼と平和への願いを込めて、昭和53年に建てられた高さ12メートルの像です。
毎年、「慰霊の日」を前に平和祈念像をきれいにする「浄め」の作業が行われていて、9日は管理する職員など8人が参加しました。
参加者ははしごを使って像の上にのぼり、表面に傷がないか確かめながら布でほこりを拭き取っていました。
平和祈念像の制作に携わった漆工芸の専門家、糸数政次さん(67)は「ウクライナなどで戦争が起きているので日本だけでなく世界の平和を願って作業しました」と話していました。
沖縄平和祈念堂では「慰霊の日」の前日の今月22日に、沖縄全戦没者追悼式の前夜祭が行われることになっています。
https://www.nhk.or.jp/lnews/okinawa/20220609/5090018656.html
慰霊の日の「平和の詩」 沖縄市の小学2年生の作品が選ばれる
06月09日 07時50分
今月23日の「慰霊の日」に戦没者追悼式で朗読される「平和の詩」が発表され、ことしは沖縄市の小学2年生の作品、「こわいをしって、へいわがわかった」が選ばれました。
「平和の詩」は毎年、県内の学校から応募があった中から選ばれ、6月23日の「慰霊の日」に糸満市の平和祈念公園で行われる沖縄全戦没者追悼式で朗読されています。
ことしはあわせて911点の応募があり、沖縄市立山内小学校の2年生、トク元穂菜さんの詩、「こわいをしって、へいわがわかった」が選ばれました。
徳元穂菜さんは祖父母や母親と一緒に、沖縄戦の悲惨さを伝える悲しい絵を見て「怖い」と感じ、そばにいた母親にくっつくと温かくてほっとしたという体験から、日常の中にある平和を失いたくないという思いをつづった作品です。
審査員の1人は「素直な自分の言葉で表現し独特な視点で書かれていて心が動かされた。身近な体験から詩を作っていて素直な言葉を用いてるからこそ読み手の心に強く印象づける強さを感じた」と講評しています。
��元穂菜さんは追悼式に出席し、詩を朗読することになっています。
*トク元のトクは、「徳」の心の上に「一」
https://www.nhk.or.jp/lnews/okinawa/20220609/5090018647.html
沖縄戦で犠牲の学徒1984人 名前記載の冊子まとまる
06月07日 18時09分
沖縄戦で旧日本軍に動員されるなどして犠牲になった学徒1984人の名前を記載した冊子がこのほどまとまりました。
冊子を編集した元学徒の団体では多くの若い人たちに読んで欲しいと呼びかけています。
冊子をまとめたのは元学徒らで作る「元全学徒の会」です。
冊子には沖縄戦で犠牲になった県内21の学校の学徒1984人の名前が学校別に掲載されているほか、糸満市の平和祈念公園にある「全学徒隊の碑」に死亡した学徒の数を刻むため団体を立ち上げて、県などに要請を重ねた活動の記録がまとめられています。
冊子は1000部印刷され県内の高校や図書館に寄贈されるということです。
団体の共同代表をつとめる瀬名波栄喜さん(93)は「碑には犠牲者数はあるが、名前は刻まれておらず、冊子をみることでどういう先輩、後輩だったか毎日でも思い出され、生き残った人や遺族にとっては意義がある。多くの若い人たちにぜひ読んでもらいたい」と話していました。
また冊子の編集に携わった宮城政三郎さん(93)は「私たちはいろんな希望や夢を抱き幸せに生きていくために生まれたが、戦争はすべて破壊していった。平和や自由、命のありがたさを伝えたい」と話していました。
「元全学徒の会」には元学徒が50人ほどいますが、高齢化が進み、最も若い人で91歳だということです。
https://www.nhk.or.jp/lnews/okinawa/20220607/5090018631.html
“人々の体験通じ沖縄戦を”恩納村で展示会
06月07日 16時23分
満州事変が起きた1931年から1945年の終戦にかけて地域がどのようにして戦争に巻き込まれていったのかに焦点をあてた展示会が恩納村で開かれています。
展示会は日本が戦争に突き進んでいった時代の恩納村の人々の体験などを通じて沖縄戦について考えてもらおうと、恩納村博物館で開かれています。
会場には旧日本軍によって極秘に編成され恩納岳を拠点とした「護郷隊」と呼ばれる少年たちのゲリラ部隊について、証言をもとにしたイラストや文章で紹介されています。
また、1人の少年を通じて満州事変が起きた1931年から沖縄戦へと向かっていく過程が複数のパネル展示で描かれていて、戦争が突然始まるのではなく、徐々に生活の中に入り込んでくることが説明されています。
恩納村史編さん係の瀬戸隆博さんは「戦争に至る過程で子どもたちの生活がどのように変化したのか、そして護郷隊はどのように戦争で戦い、その後どのように過ごしたのかを知ってほしい。そして過去に学び戦争を2度と繰り返さないことを考えてほしい」と話していました。
この展示会は今月26日まで開かれています。
https://www.nhk.or.jp/lnews/okinawa/20220607/5090018628.html
「慰霊の日」に向け 「平和の礎」の名前すべて読み上げへ
06月06日 15時37分
今月23日の「慰霊の日」に向けて、「平和の礎」に刻まれている24万人余りのすべての名前を読み上げることになりました。
これは6日、有志の市民などでつくる団体が記者会見を開いて発表したものです。
この団体は、今月23日の「慰霊の日」にあわせて、糸満市摩文仁の「平和の礎」に刻まれている24万人余りのすべての名前を読み上げようと準備を進めていました。
読み上げは戦争経験者や遺族、地元の中高生など1500人が交代でオンラインで行い、公開されます。
今月12日から始めて、「慰霊の日」前日の今月22日午後からは、糸満市摩文仁の平和祈念公園に場所を移して夜通し読み上げを行うということです。
6日の会見には「平和の礎」が造られた当時、知事公室長で、今回の取り組みに協力している高山朝光さんも参加し、「名前が刻まれている人たちが、もし戦争で亡くならなければすばらしい人生を歩んだであろうということに思いを寄せながら、生きた証しを読み上げてほしい」と話していました。
主催団体のメンバーの一人、町田直美さんは「名前を読み上げることで戦没者の思いを共有したい」と話していました。
団体では、読み上げに参加する人を引き続き、募集しているということです。
https://www.nhk.or.jp/lnews/okinawa/20220606/5090018613.html
慰霊の日にあわせ「平和の礎」に新たに55人の名前刻銘へ
06月02日 07時32分
6月23日の「慰霊の日」にあわせて、沖縄県は、糸満市の「平和の礎」に沖縄戦などで犠牲になった55人の名前を新たに刻むと発表しました。
糸満市摩文仁の平和祈念公園にある「平和の礎」は、世界の恒久平和を願い悲惨な戦争体験を継承するため、戦後50年にあたる平成7年に設けられました。
「平和の礎」では、毎年6月23日の「慰霊の日」にあわせて、新たに申告があった沖縄戦などで犠牲になった人の名前が追加で刻まれています。
沖縄県によりますと、ことしは去年より14人多い55人の名前が刻まれることになりました。
内訳は県内出身者が27人、県外出身者が28人となっていて、今回を含めて名前が刻まれた人は24万1686人にのぼるということです。
県は「慰霊の日」までに、新たな戦没者の名前を刻んだ刻銘板を設置することにしています。
https://www.nhk.or.jp/lnews/okinawa/20220602/5090018533.html
慰霊の日の戦没者追悼式 規模縮小し約340人を招待
06月01日 08時27分
沖縄県は、今月23日の慰霊の日に開く戦没者追悼式について、新型コロナの感染状況を踏まえてことしも本来の規模を縮小し、およそ340人を招待すると発表しました。
毎年、6月23日の慰霊の日に糸満市の平和祈念公園で開かれる戦没者追悼式は、例年およそ5000人が参列していましたが、新型コロナの感染拡大を受けて規模の大幅な縮小を余儀なくされおととしは161人、去年は36人のみの参列となりました。
県は、ことし予定している戦没者追悼式についても引き続き規模を縮小し、およそ340人を招待すると発表しました。
式典には岸田総理大臣や衆議院と参議院の議長、駐日アメリカ大使、遺族会の代表などが招待されますが、招待者以外の参列は見送るということです。
沖縄県は、「参列される高齢者の健康などに配慮した決定なので県民の皆さまにはご理解とご協力をお願いしたい」と話しています。
https://www.nhk.or.jp/lnews/okinawa/20220601/5090018525.html
沖縄戦直後の風景や暮らしを撮影した写真展 本部町
05月24日 07時45分
沖縄戦直後の風景や人々の暮らしが撮影された写真の展示会が本部町で開かれています。
会場には、沖縄戦直後の1945年7月から10月ごろにかけて、本部町に駐留していたアメリカ兵によって撮影された写真130点余りが展示されています。
いずれもアメリカ在住の写真収集家が手に入れたもので、知人で読谷村に住むラブ・オーシュリさんを通じて去年、本部町に寄贈されました。
このうち、当時アメリカ軍によって町内に設置された施設を撮影した写真には、そこで働く沖縄の人の姿などが捉えられています。
別の写真では、今は住宅や市場などが建ち並ぶ渡久地地区が焼け野原となっている様子が確認できます。
このほか、農作業中に笑顔を浮かべる住民や、大勢の子どもたちを捉えた写真などがあります。
展示会を主催する本部町企画商工観光課の比嘉啓一郎さんは「戦争直後の本部町の記録は少ないため今回の写真は貴重な資料で、後世に残していけるようまとめていきたい」と話していました。
この展示会は、本部町立博物館で来月末まで、月曜日と祝日を除く毎日開かれています。
https://www.nhk.or.jp/lnews/okinawa/20220524/5090018368.html
首里城地下の司令部撤退を決めた日 77年前の戦跡を巡る
05月22日 19時22分
77年前の22日、沖縄戦で那覇市の首里城の地下に司令部を置いた旧日本軍は住民の犠牲者が増える結果となった部隊の沖縄本島南部への撤退を決定しました。
この日に合わせて首里城周辺の戦跡を巡って沖縄戦を学んでもらおうと、フィールドワークが開かれました。
これは「沖縄県平和祈念資料館友の会」が主催したもので、およそ80人が参加してまず首里城近くの寺にあった壕の跡を見学しました。
この壕には沖縄戦の際、地元に住んでいた人たちで編成された部隊が配置され、当時、県立第一高等女学校の生徒で15歳だった翁長安子さんは部隊のために食事を作るなどの経験をしました。
翁長さんはフィールドワークの参加者に経験を語り「最後の日は近くまで戦車が来て激しい攻撃にあい、壕の上に爆発物が仕掛けられて中は血の海となった」と当時の様子を語りました。
77年前の22日、沖縄戦では那覇市の首里城の地下に司令部を置いた旧日本軍が部隊の沖縄本島南部への撤退を決定し、その後、住民の犠牲者がさらに増える結果となりました。
参加した浦添市の20歳の女性は「沖縄戦について勉強したいと思って参加した。私たち若い世代が沖縄戦を語り継ぐのが大事だと思う」と話していました。
https://www.nhk.or.jp/lnews/okinawa/20220522/5090018363.html
慰霊の日追悼式 ことしも規模縮小 総理ら3年ぶり招待の方向
05月20日 15時08分
沖縄県は慰霊の日に開く戦没者追悼式について、新型コロナの感染拡大を防ぐとして、ことしも規模を縮小する一方、岸田総理大臣をはじめ来賓を招待する方向で調整を進めています。
6月23日の慰霊の日に糸満市の平和祈念公園で開かれる戦没者追悼式は、3年前は5000人規模で開かれましたが、その後は新型コロナの感染拡大を防ぐため規模を大幅に縮小して総理大臣の招待は見送り、ビデオメッセージを寄せてもらったうえで参列者はおととしは161人、去年は36人のみに限定して行われました。
県はことしについても新型コロナの感染対策を引き続き取る必要があるとして、300人程度の規模に縮小しての開催で検討を進めています。
ただ、一般の県民の参列は見送りますが、岸田総理大臣をはじめ来賓を3年ぶりに招待する方向で調整を進めています。
県は今月中に招待者を正式に決めるとしています。
https://www.nhk.or.jp/lnews/okinawa/20220520/5090018340.html
生徒が校内放送で沖縄戦絵本朗読
06月25日 15時26分
戦争の悲惨さや平和の尊さについて考えようと、中頭・読谷村の読谷中学校で、生徒たちが校内放送で全校生徒に向けて沖縄戦の戦場を逃げ惑う親子の実体験が描かれた絵本を朗読しました。
中頭郡読谷村字座喜味の村立読谷中学校では、毎年6月に平和学習の成果を発表する集会などを行ってきましたが、ことしは新型コロナウイルスの影響で延期となりました。
こうした中でも戦争の悲惨さや平和の尊さについて考える場が必要だとして、生徒たちの発案で25日、10人の生徒が校内放送で沖縄戦に関する絵本を朗読する取り組みが行われました。
朗読したのは、「ちむどんどん」という中城村の戦場を逃げ惑う親子の実体験が描かれたもので、母親は3人の子どもを守ろうと懸命に逃げますが、3人とも砲弾を受けるなどして亡くなってしまいます。
教室ではスクリーンに絵本が映し出され、生徒たちは真剣な表情で朗読を聞いていました。
朗読を終えると、生徒の代表が「沖縄戦から、私たちは生きる意味や命について考えさせられ投げかけられた。私たちには何ができるでしょうか」と全校生徒に問いかけていました。
朗読した生徒の1人は「新型コロナウイルスの影響で今後も体験者の話を聞くことができないかもしれないので、自分たちで調べるなどして、平和の大切さを伝えられるようにしていきたい」と話していました。
https://www.nhk.or.jp/lnews/okinawa/20200625/5090010630.html
沖縄慰霊の日福岡の沖縄出身者は
06月23日 18時55分
沖縄は23日、20万人を超える人が亡くなった沖縄戦から75年の「慰霊の日」を迎えました。
最後の激戦地となった糸満市で戦没者追悼式が開かれる中、福岡でも沖縄県出身の男性が黙とうをささげました。
福岡市博多区空港前の西表宏さん(70)は、沖縄県石垣市の出身で、去年3月まで30年余りにわたって、福岡市の香蘭女子短期大学で沖縄の文化や歴史を教えてきました。
ことしの「慰霊の日」は、糸満市摩文仁の平和祈念公園で開かれる沖縄県主催の戦没者追悼式に参加するつもりでしたが、新型コロナウイルスの影響で沖縄への渡航を控え、自宅からテレビで追悼式を見守ることにしました。
西表さんは、正午に合わせて立ち上がり、沖縄の方向を向いて黙とうを捧げました。
そして、「普段なら追悼式の会場に大勢の人が集まるが、23日は閑散としていて、さみしく感じる」と涙を流していました。
西表さんは福岡市を拠点に沖縄戦の悲劇と平和の尊さを若い世代に語り継ぐ活動を行っていますが、体験者が年々、少なくなっているということで、「今のうちに体験者の話をしっかり聞いて、それを魂の声として次の世代にバトンタッチしていかなければならない」と話していました。
https://www.nhk.or.jp/fukuoka-news/20200623/5010008360.html
白梅慰霊祭は若い世代が継承
06月23日 18時02分
「白梅学徒隊」の女子学徒らを追悼する慰霊祭が開かれ、ことしは、戦争体験を伝える取り組みを受け継ぐ若い世代のグループが主催者として加わり、体験者とともに平和を祈りました。
「白梅学徒隊」は、沖縄戦の際、負傷兵の看護にあたるため、当時、那覇市にあった県立第二高等女学校の生徒たちで編成された女子学徒隊です。
糸満市にある白梅の塔で、犠牲となった22人の学徒を含め沖縄戦で亡くなった第二高等女学校の生徒や教師など149人を追悼する慰霊祭が開かれました。
慰霊祭は、これまで同窓生らが主催してきましたが、高齢化に伴い、ことしは、戦争体験を伝える取り組みを受け継ぐ20代から50代でつくるグループも初めて主催者に加わりました。
慰霊祭では、はじめに元学徒隊の中山きくさんが「同窓会も高齢化しもうすく活動を止めなければならないが、若者たちが引き継いでくれると言ってくれました。来年は若者たちが集って平和を祈念する場にしたい」と追悼のことばを述べました。
このあと、訪れた人たちが慰霊碑に線香をあげたり手を合わせたりして平和を祈っていました。
活動を引き継ぐグループの代表を務めるいのうえちずさんは「来年以降も小中学生が参加できるような平和を発信する慰霊祭にしていきたい」と話していました。
https://www.nhk.or.jp/lnews/okinawa/20200623/5090010618.html
名護高校で元学徒の慰霊祭
06月23日 17時57分
沖縄戦で看護要員などとして動員され、犠牲となった学徒を追悼する慰霊祭が、慰霊塔がある名護市の名護高校で開かれました。
名護高校の前身である県立第三中学校と第三高等女学校の生徒たちは、多くの生徒が通信や看護の要因として動員され、375人が犠牲になりました。
ことしは、新型コロナウイルスの影響で、例年より規模を縮小して慰霊祭が開かれ、在校生や卒業生の代表らおよそ20人が参列しました。
この中では卒業生を代表して、大城康正さんが、「先輩たちが経験した悲惨な思いを子や孫に絶対にさせない。戦争を二度と起こさせないよう平和な沖縄にすることを誓います」と述べました。
また名護高校の辻上弘子校長は、「生徒たちは、学業や部活動など充実した高校生活を送っています。このありがたい日常生活が奪われないよう平和や命の大切さを学校教育を通して理解させてまいります」と述べました。
このあと参列者は、慰霊塔に花束を手向け、犠牲者を追悼しました。
名護高校3年の生徒会会長、宮里芳綺さんは、「同じ世代のころに戦争に巻き込まれた先輩方を思うと、とても心が痛みます。これからも平和を大切に守っていきたい」と話していました。
https://www.nhk.or.jp/lnews/okinawa/20200623/5090010617.html
戦争マラリア犠牲者追悼式
06月23日 17時54分
太平洋戦争末期、石垣島など八重山地方で軍の命令により、マラリアが発生する地域に強制的に避難させられ、3600人余りが命を落とした「戦争マラリア」の犠牲者の追悼式が石垣市で行われました。
石垣市の県営バンナ公園内にある慰霊碑で行われた追悼式は、ことしは新型コロナウイルスの影響で規模を縮小して行われ、例年の10分の1ほどのおよそ30人が参列して行われました。
はじめに祭壇にお茶が供えられたあと参列者全員で、黙とうをしました。
続いて石垣市の中山市長が、「市として戦争マラリアの歴史を正しく継承して、平和の尊さを子や孫に引き継ぐため遺族会らと手を携え慰霊と平和希求の旅を今後も続けていくことを誓います」と述べました。
また遺族会の佐久川勲会長は、「生き地獄の中で母、姉、弟、妹を亡くした悲しみは75年が経過した今も消えることはない。過去を忘れる者はもう一度繰り返す運命にあるので語り継いでいくことが重要だ」と述べました。
このあと参列者たちはひとりひとり焼香し手を合わせて犠牲者を悼みました。
https://www.nhk.or.jp/lnews/okinawa/20200623/5090010616.html
宮古島でも規模縮小し追悼式
06月23日 16時00分
沖縄戦で3000人以上が犠牲になった宮古島市でも戦没者追悼式が行われました。
ことしは、新型コロナウイルスの影響で、例年より規模を縮小し、宮古島市の地区の遺族会の代表や下地市長など8人が参列しました。
正午の時報とともに黙とうをしたあと、宮古島市戦没者遺族会の川満俊夫会長が、「私たち遺族も高齢化し戦争を知らない世代が多くなりました。戦争の悲惨さと平和の尊さを語り継がなければなりません」と述べました。
このあと参列者全員が花を手向けて犠牲になった人たちを追悼しました。
上野地区遺族会の代表として参列した70代の男性は、「規模を縮小してでも、滞りなく終えることができて心が安らぐ思いです」と話していました。
https://www.nhk.or.jp/lnews/okinawa/20200623/5090010615.html
玉城知事 新基地反対変わらず
06月23日 15時56分
沖縄県の玉城知事は戦没者追悼式のあと、記者団に対し、ことしの「平和宣言」について、「辺野古新基地建設の部分は、例年と比べて少し表現は変えたが、反対する思いはそのものは全く変わっていない。希少種が生息する辺野古大浦湾周辺は生物多様性の海であり、75年たったこんにち、どのような形で、将来世代に渡していかないといけないのかに重きをおいてメッセージを発信したつもりだ」と述べました。
また玉城知事は、「戦後75年の節目で広島、長崎の両市長から、貴重なご挨拶を頂戴した。私たちが持っている思いをこれからもしっかりとつなぎ、発信していくためには、引き続き、私も広島、長崎両市の平和式典に参加させて頂き、機会があれば、国連本部に行って、中満事務次長とも意見をしっかり交わしていきたい」と述べました。
https://www.nhk.or.jp/lnews/okinawa/20200623/5090010614.html
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