「信仰とは何か?」
6月22日(月)午後6時〜8時「第20回 オンライン路傍伝道」
https://9001.teacup.com/sfk/bbs/21365 (写真入り記事)
信仰と言っても。一般に日本人が考える信仰は「信心」です。「信仰する心こそが大切である」という考え方です。聖書が教える信仰は、何でもかんでもやみくもに信じればよいのではなく、信じる対象が大切であり、神を信じることが信仰だと教えます。
しかし、「神を信じる」と言っても、そこには盲点があります。八百万の神々への信仰から、洗礼を受けて教会に通っている人が、聖書から外れた神像を神と信じている場合もあります。
新約聖書の4つの福音書に出て来る「5000人の給食の奇跡」は、間違った信仰を呼び覚ましました。イエス様が自分の欲望を満たしてくれる便利屋さんのように考えて、群衆は王に祭り上げようとしました。イエス様は、人々の間違った信仰を見抜いて、1人山に退かれました。
教会の中で起こる問題は、たいてい間違った神像から来ています。ありのままのイエス様を知ろうとしないで、自分の理想の神像をイエス様に当てはめて、祭り上げようとしたユダヤの群衆の様に、勝手な信仰が原因です。
これは、目に見えない偶像礼拝です。実体のない神像だからです。
また。不品行や姦淫と同じ根を持っています。性的問題を抱えている人は、誰にも迷惑をかけていないと考える場合がありますが、そうではありません。神に対する罪を犯しているし、自分や相手の体に対して罪を犯しています。また、その関係者に対して迷惑をかけ、社会的信頼を壊し、家庭をめちゃくちゃにします。
さらに、愛し合っていると思い込んでいます。しかし、愛しているのは自分の欲望であり、その欲望を満たすために相手を利用しているに過ぎません。自分の欲望を満たしてくれている時には関係がうまくいきますが、何かの拍子で憎しみに変わることがあるものです。
クリスチャンになっても、そのような罪から離れない人は、勝手な神像を持っています。なぜならば、ありのままのイエス様を知ったら、そのような罪を犯し続けることはできないからです。
罪を指摘することが救いのためのプロセスなのに、烈火のごとくに怒り出したり、教会を離れたり、信仰を捨てる人がいます。
例えば、コロナウィルスの恐さは、感染しているのにその自覚がない人がいることです。その人が行動したら次々に感染の拡大をさせてしまいます。その人は、PCR検査を受けてウィルス感染を知り、隔離してもらわなければいけません。
同じように、罪の自覚を持ってもらえなければ、イエス様を求め、悔い改めて救われることはありません。
しかし、罪の指摘を受け入れ、罪を離れ、悔い改めるプロセスには痛みが伴います。これは外科手術にも似ています。しかし、そのプロセスを省略したからといって病気が治ることがないように、救いを得ることはありません。
間違った神像を捨てて、ありのままのイエス様を求め続けたいです。そこからすべてがはじまり、真の聖化と成長が起こり、生き方が変えられていき、そのプロセスの中で人々に伝道をし、人々を導いていくのです。
この世では、神の目から見て完全な信仰を持っている人はまずいないでしょう。しかし、「そういうものだ、仕方ない」とあきらめるのではなく、完全な信仰を求め、神に喜ばれる生き方を求めていきたいものです。
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