本名 山本長五郎 1820(文政8年)〜1893(明治26年)侠客。清水美濃輪の船持船頭三衛門三男として生まれ、妻の弟の米屋次郎八に子がなかったので、同人に養われた。
治郎長は次郎八の所の長五郎の意。子供の時から乱暴者だったが、長ずると巨躯力人に優れ、性剛胆、遊侠の世界に身を投じ、飲酒賭博を事とした。一夜泥酔して袋叩きにあい、
以後酒を断って剣術を学ぶ。しばしば捕手に追われ、各地で腕を磨き清水次郎長の名が広まる。以来各地に奔走する事30年、明治維新の際駿府町奉行伏谷如水が総督府判事を命
じられると、治郎長を召し出して過去の罪を免じ道路探索方を命じ、これに感激して足を洗う。1868年9月清水港で官軍に砲撃された咸臨丸乗組員を葬って「壮士の墓」を建
注1
つ。山岡鉄舟や初代県令大迫貞清の知遇を受け、1881年頃から囚人を使って、富士山の南麓(富士市大渕)を開墾。今「次郎長開墾」の名前が残っている。1884年7月全
国的に行われた博徒刈り込みで捕らわれ、静岡市の井宮監獄に下る。既に次郎長は足を洗っていたが、代わったばかりの奈良原繁県令が事情をしらなかったためである。山岡鉄舟
や大迫貞清らが奔走。2年余で仮出獄。東海道線敷設の際鉄道局長になっていた奈良原は、その償いに県内の工事を請け負わせようとしたが、次郎長は「人に汗を流させて儲け
たりすることは嫌だ」と断る。将来英語が必要になると考え、先生を招き青年たちに学ばせた。注2 清水市梅蔭寺にある墓標の文字は榎本武揚。
注1)戊辰戦争で敗走する政府軍の死体が多数港に浮かんで処理に困っていたのを知って
「生きているうちは敵味方だろうが、死ねば皆仏さんだ。丁寧に弔おう」と子分を
総動員して近くの寺に葬った。それを聞いた山岡鉄舟が感激して忠魂碑を建てた。
注2)「文明開化」の世では、特に若者たちは英語を学んで国際交流することを願い、
徳川家の明徳館で知りあいの英国人の講師を依頼して、英語塾を開いた。この塾で
学んだ三保村の青年がハワイで成功し、その後この地域から数千人がハワイに移住
した。次郎長本人は無筆(読み書き不可)だったという。
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