「人を批判する時の心得とトレジャー・ハンター」
https://9001.teacup.com/sfk/bbs/21086 (写真入り記事)
学生時代、親、教師、社会、政治などに対して痛烈に批判しました。神学校に通うようになると、クリスチャンや牧師に対して批判したことを思い出します。
批判をしている時の私は・・・
�ー�分が知るべきこともまだ何も知らないということを知りませんでした。
�⊆�分が正しいと信じて疑っていませんでした。
��自分がいっぱしの者であるかのように思い上がっていました。
一人の大学生が、教授から批判することに対しての教訓を得ました。
本を読んで、著者に対して自信満々で批判的な意見を述べました。
それを聞いた教授は、「ちょっと読み込みが甘いというか、もう少し著者の意見に耳を傾けましょう」と言いました。
「え、なんで!?・・・」と思ったそうです。
続けて教授は、「君の指摘している点はある意味で正しいかもしれません。けど、著者の本当に言いたいこと、何を言いたいのかということを、本当に理解しようとしてから、そういう点を指摘してますか?」
「その人が本当に言いたいことを理解するつもりで意見を聞き、その言いたいことを結論づける上で根拠や理由に不十分な部分があるなら、それは指摘して『あげる』必要があるんです」
ハッとしたそうです。
自分の意見は、重箱の隅をつついて、ただ「間違ってやんのー。 やーいやーい、減点〜!」と言っている子どもと同じ。
著者が言いたいことに耳を傾けることなく、ただ、わけも分からず、足をひっぱろうとしていただけだったと気づきました。
まず批評ありきで、著者の意見の甘いと思ったところを指摘してやろうと身構えていたら、相手が本当に言いたいことを見過ごしてしまいます。
私は、数年前から、毎日2つ以上の文章をネット上に投稿し続けています。
これを毎日やっていると、時間が限られていますので、文章の校生をしないでそのままアップロードしてしまうこともあります。つまり、不十分な文章のまま載せてしまうこともあります。
勇気をもって間違いを指摘してくれる人がいたらありがたいです。お礼を言って、すぐに訂正します。
ただ、批判してくれる人の中には、文章の本筋ではなく、枝葉の部分の話に過剰反応して、のべつ幕なく攻撃的、かつ感情的に持論を展開する人もいます。
時間があれば、その人とじっくり話し合いたいですが、お互いの時間が合わなかったり、そこまでの時間は取れません。
何より、私が本当に言いたいことに耳を傾け、理解しようとしない心から出る批判者は、私が何を話そうと、聞く耳はなく、堂々巡りが続き、残念な結果に終わってしまうことがあります。
批判をしてくれるということは、真剣に文章を読んでくれていることです。その心はありがたいです。
また、私自身に関心を持ってくれていることに感謝したいと思います。
しかし、パッと目に付く部分を、さっと批判してしまう前に、筆者が、一体何を言おうとしているのかに耳を傾け、それを受け止めた上で、「ここが不十分だと思いますよ」と指摘してくれるとしたら、さらにありがたいです。
もし、本筋ではない枝葉の内容のことで、「あーでもない、こーでもない!」と、落ち度を批判したくなったとしたら・・・、ちょっと立ち止まって、もう一度読んでみて下さい。
次に、聖書を安易に批判する人がいます。
聖書と向き合い、聖書が何を語ろうとしているのかに耳を傾けて、理解しようとした結果、批判するのは構いませんし、否定するというなら仕方ありません。しかし、最初から、自分なりの聖書観という色メガネをかけて、聖書の矛盾点を探すだけの批判なら、いささか早とちりであり、早合点の勇み足ではないかと思います。
聖書は、「・・・もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。」(使徒の働き17章27節〜28節)と語ります。
また、「あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたし(イエス・キリスト)について証言しているのです。それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたし(イエス・キリスト)のもとに来ようとはしません。」(ヨハネの福音書5章39節〜40節)と書かれています。
批判する心が文明や文化を発達させて来ました。批判をし、より良くしていこうという心は大切です。
しかし、批判のための批判ならば、理解し合うことなく、争いを生み出すだけです。そして、そこに隠された宝に気づかないで、見過ごしてしまうこともあります。
みなさんは、じっくり文章を読んで下さる方々だと思います。ぜひ、聖書に向き合い、じっくり読んでみて下さい。そこに、想像もできないほど素晴らしい宝が隠されていると思います。聖書を読むことは、世界最高のトレジャー・ハンティングです。
「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。」(マタイの福音書13章44節〜46節)
今日も素敵な一日でありますように。
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