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2020年04月12日23:45

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河尻与一 考

『信長公記』首巻に複数回名前が見られる「川尻与一」について。

まず「河尻与一」が『信長公記』のどの箇所に出てくるかをおさらい。

・上総介殿形儀之事
 天文16年11月20日、清洲織田家の軍勢が織田信秀の古渡城に出陣し、城下に火を放った。
 信秀は出陣中だったのが帰着し、清洲織田軍と合戦になった。
 信秀重臣の平手中務丞(政秀)は、清洲織田家重臣の坂井大膳・坂井甚助・「河尻与一」へ和睦交渉を行ったが、この時はうまくいかなかった。
 翌年の晩秋になってようやく和睦となった。
 政秀は三重臣へ和睦の礼状を送ったが、端書に紀貫之の古歌をしたためていた。

・深田松葉両城手かはり之事
 天文21年8月15日に清須織田家の坂井大膳・坂井甚助・「河尻与一」・織田三位が主導で松葉城と深田城を攻撃し、両城の守将から人質を取って織田信秀(ないし信長)に敵対した。
 これを聞いた信長は、8月16日に那古野城を出て、稲庭地の川端まで出陣した。
 守山城からも織田孫三郎(信光)が駆けつけたので、軍勢を分けて清洲城・松葉城・深田城へと進軍させた。
 信長と信光は清洲城に近い萱津で清洲織田家の軍勢と合戦になり、坂井甚助ら50騎ほどを討ち取った。
 深田・松葉両城は降伏し、以後信長は清洲織田家と敵対することになった。

『信長公記』に登場するのはこの2度。
なお「河尻左馬丞」という人物が以下に登場するので、これもまとめておく。

・武衛様御生害之事
 天文23年7月12日、若武衛(斯波義銀)と随行する側近が川狩りに出かけ、守護所には老人ばかりが残っていた。
 坂井大膳・「川尻左馬丞」・織田三位らは城中の様子を見て好機と判断し、守護所を包囲襲撃した。
 武衛(斯波義統)は敗北を悟って守護所に火を放って、一門ともども自害した。
 川狩りをしていた義銀は那古野城へと逃れ、また別の子も毛利十郎(新助)に保護され、信長はこれを保護した。
 斯波氏は清洲織田氏を滅ぼそうとしていたが、反撃の憂き目を見た自滅だった。
 清洲城で斯波氏に仕えてきた者たちも焼き討ちにあって、衣食住に難儀するようになった。

・柴田権六中市場合戦之事
 天文23年7月18日、柴田権六(勝家)が清洲城へ出陣し、安食で清洲織田軍を撃破した。
 「川尻左馬丞」・織田三位らは清洲城下で勝家軍と戦ったが、二将以下30騎ほどが戦死した。
 これも主君である斯波義統を討った因果応報であった。

このほか「織田喜六郎御生害之事」(弘治元年)に、清洲織田家の重臣のうち、既に戦死してしまった人物の一覧に、坂井甚助・織田三位とともに「川尻左馬丞」の名前がある。

なお小瀬甫庵の『信長記』では、河尻与一の事績は「川尻左馬丞」に統一されている。
また『総見記』を見ると、「河尻与一郎が改名して河尻左馬助となった」と明記している(表記は箇所によって「与市」とか「左馬允」と揺れる)。
後世の人は二人を同一人物と判断したようである。

***

続いて『美濃国諸家系譜』の河尻氏の系図を見てみる。

同系図によれば河尻氏は、奥州石川氏と同祖の大和源氏の一族。
苗字の地は加賀江沼郡、あるいは近江滋賀郡だという。
南北朝期には一時期肥後に下向したようだが、室町期は基本的に美濃守護の土岐氏に従ったらしい。
一説には戦国初期の頼実は、土岐氏庶家から養嗣子に入ったという。
なお頼実の妻は明智氏から迎えている。

頼実の長男頼重(与太郎、肥後守)は美濃加茂郡に所領を継いだようだが、弟の実重(与四郎、右京亮)は尾張に下って岩倉織田家に仕えた。
実重は織田敏信・信安の二代に仕え、丹羽郡大山城の城代となった。

実重の子が「河尻与一郎」の通称を持つ、河尻重俊である。
重俊は重成ともいい、通称は与太郎ともいう。
与一郎は没年から逆算すれば永正7年(1510年)生まれ。
清洲織田家の彦五郎(信友・広信)の家老として、世子の時期から仕えた。
天文17年(1548年)9月に坂井大膳・甚助と共謀して、織田信秀の古渡城を攻めたが、後に降参した。
そして天文19年(1550年)8月に41歳で死去した。
子がなかったため、従兄の子にあたる河尻重遠が家督を継承した(後述)。

美濃勝山城の河尻頼重の子重親(与兵衛尉、与左衛門尉)は、土岐頼純(史実における頼武)に仕えたが、大永7年(1527年)斎藤道三に敗れて美濃を落ち、織田信秀に仕えて小豆坂の戦いで戦功があった。
後年、土岐頼芸が尾張へ落ち伸びてくるとその指揮下に入ったらしく、天文16年(1547年)頼芸が美濃へ出陣するとこれに従ったが、かえって斎藤道三に敗れて戦死した。
なお重親の妻は犬山城主織田氏の娘だったらしい。

重親には子が三人いたが、そのうち次男重遠は、戦死した重親の従弟与一郎の養嗣子になっている。
この河尻重遠が、史実における河尻秀隆にあたる。

系図に直すと以下のようになる。

―頼実┬頼重―重親―重遠┐
   |        ↓
   └実重―重俊…重遠(秀隆)―
       (与一郎)

『寛政重修諸家譜』では河尻氏は醍醐源氏とされていて、この系図とは出自が異なる。
また『野史』では河尻秀隆(鎮吉)は伊勢の人で、父は右馬允鎮祐とある。

***

「河尻氏系図」によると、河尻与一は天文19年に死去しており、戦死したという特記はない。
だが坂井大膳らとともに家老と併記されている以上、同一人物であることは疑いがない。
とはいえ『信長公記』の記述から、河尻左馬丞が斯波義統殺害直後に戦死したことは疑いがないため、没年は天文23年でなければならない(22年説もある)。
少なくとも織田信秀没後であることは疑いないため、天文19年没説は頷けない。

まあ「河尻氏系図」を信用しないというのがスマートではあるが、あえて双方を立てて考えてみる。

1.「河尻氏系図」の年季が誤りで、天文23年に戦死したのが正しい。戦死によって断絶したため、河尻秀隆が家督を継いだ。
2.「河尻氏系図」ないし『信長公記』に欠落があり、天文19年の与一郎死後、同名の子が立ったが、天文23年に若年で戦死したため嗣子がなく、秀隆の家督となった。

こんな感じだろうか。
まあ仮定として考えるのならば、以下のようにしてみてはどうだろうか。

河尻重俊、永正11年(1514年)ころ〜天文23年(1554年)
 与一郎、左馬丞。実重の子。
 清洲織田彦五郎の家老職だった。
 天文16年(1547年)11月、清洲織田家と織田信秀が合戦に及ぶと、同僚の坂井大膳らとともに和睦交渉を担当し、翌年秋に和睦を締結。
 しかし信秀死後の天文21年(1552年)8月、坂井らとともに織田信長の支城を攻略するが、反撃にあって敗北。
 天文23年(1554年)7月、清洲織田家を切り捨てようとした斯波義統を、坂井らとともに攻め滅ぼすが、報復のために挙兵した信長軍と戦って戦死した。
 嗣子がなかったため、従兄重親の次男が迎えられて家督を継ぎ、河尻秀隆となった。


→坂井大膳については別記事へ
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