「福音の力」
「一日一シャ〈謝と捨と洒と写〉2020/2/25(火)【1684】」
https://9001.teacup.com/sfk/bbs/20842 (写真入り記事)
福音は、人をありのままで受け入れ、そのままの状態ではとどまり続けることができない不思議な力を持っています。
イエス様は、すべての人を招かれました。しかし、すべての人が応答したのではありませんでした。
だから、聖書は「狭い門である」と語ります。
「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」(マタイ7:13〜14)
狭い門を通るかのように、自分の罪を自覚し、悔い改め、罪の赦しを得た人は救われました。
広い滅びに至る門を通る人は、自分の状態に無頓着です。罪を自覚しないばかりか、自分の義を押し通します。その人は、救われないどころか、イエス様に敵対するようになり、その罪の性質がイエス様を十字架につけるに至ったのです。
教会で福音が語られているならば、どんな人でも来ることができます。しかし、福音ではなく、「こうあるべき!」という宗教が語られているとしたら、そこに該当できる人しか来ることはできません。
福音は、入り口は広く、その先にある門は狭いのですが、律法や宗教は、入り口は狭く、その先にある門は広いのです。
福音は、「誰でも、渇いているなら、重荷を負っているなら、わたしのもとに来なさい」と語ります。
教会はどんな人でも来る可能性がありますし、「あっ!?」と驚くような、とんでもない人が来ることもあります。
もし、教会にとんでもない人が来られるとしたら、福音が語られている証拠かも知れません。
しかし、その先があります。狭い門であるイエス様に応答できるかどうかが分水嶺となります。
応答できない人は、応答できない理由を探して、「こうだから・・・」と、自己を正当化します。
その「こうだから・・・」はいろいろ変わります。
自分を変えたくないので、変えなくて済む理由を探します。
「こんな教えはおかしい、納得できないから信じられない」「牧師が悪いから・・・」「ああいう信徒がいるから・・・」等々。
自分を変えない理由探しを続けていると、つまづきは、やがて、拒否につながり、最後は、イエス様に敵対したユダヤの宗教家たちと同じ道を進むことになります。
しかし、自分の目の梁に気づいた人は、その解決のためにイエス様に向かって悔い改め、方向転換を市、救いを得て、神の子となり、永遠のいのちを得ます。そして、持てる人は、さらに持つようになります。
「なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。偽善者よ。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます。」(マタイ7:3〜5)
「持っている者はさらに与えられて豊かになり、持たない者は持っているものまでも取り上げられてしまうからです。」(マタイ13:12)
福音は、すべての人を招きますが、すべての人が応答するわけではありません。
「すべての国民を弟子としなさい」とイエス様は語られました。しかしそれは、決して人間業ではありません。
祈り、最善を尽くすしかありません。
しかし、これだけが日本を変える最後の砦です。福音は日本変え得ると信じます。
イエス様に悔い改めましょう。そして、人々を弟子とするために立ち上がっていきましょう。
福音の力にいつも驚かされます。
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