「命をかけても良いほどの使命」
https://9001.teacup.com/sfk/bbs/19996 〈写真入り記事〉
数年前、小学5年生の男の子が自転車で踏切を渡ったところ、電車と衝突し、はねられて死亡する事故が起こりました。
その踏切は、警報機と遮断機のない「第4種踏切」でした。
亡くなられた男児の親御さんや親族、友人知人の方々に神様の慰めをお祈り致します。
私が小学校3年生の時、生まれ育った東京都品川区中延の東急池上線の警報器はあるけれど似ている「第3種踏切」があり、この事故とほとんど同じシチュエーションに直面しました。
私の場合、渡ったのが1〜2秒早かったので、間一髪で、電車と衝突せず、はねられることがありませんでした。
偶然だったのか!?
それとも、
神が守って下さったのか!?
何十年も苦悶し、悩み、考え続けて来ました。
私の出した結論は、「神が私を守って下さった」との確信です。
すぐに、「神が守って下さった」と確信できなかったのは、「神が私を特別扱いするだろうか!?」という疑問と、世の中には、きっと私と同じようなシチュエーションで、間一髪で事故に遭って亡くなった人がいるという現実があるからです。
生と死は紙一重です。
1〜2秒の違いで、今私が、ここに、存在しているというのは、とても重い現実です。
私が、間一髪で命が守られたできごとはこれだけではありません。いくつもありますが、特に印象深いできごとがあります。
18歳の時、バイクで環状8号線を直進していました。急に目の前で右折車が曲がって来ました。すぐ隣りを走っていたバイクは、その右折車と激突して即死しました。私は、間一髪避けて、事故に遭いませんでした。
この事故を目の前で目撃し、大きな爆発のような衝突音を聞いたことは、心に焼き付けられ、人生の深い傷となり、一人になると、苦しみ悶え、悩み続けました。
しかし、最後は、「神様が私を守って下さった」という確信に変わり、感謝の祈りを致しました。
神様は私に、もう一度、さらにもう一度、命を下さった。その与えられた命に大きな重みを感じます。
聖書には、「私はあなたがたのたましいのためには、大いに喜んで財を費やし、また私自身をさえ使い尽くしましょう。」(�競灰螢鵐硲隠機В隠押砲判颪�れています。
「この命を使って、神さまと人々のために貢献して行かなければならない!」。思い出すたびに心で決意します。
20歳の時に、町で声をかけられて、芸能界にスカウトされたことがありました。
神様にお祈りすると、「牧師になって、多くの人に神の言葉を語りなさい」という明確な導きを感じました。
私は、芸能界への道を諦め、神学校に入学して、牧師になる道を選びました。
今でも、「この決断ができて良かった!」と思います。
今日も、このようにみなさんと文章を通して心を通わしながら神様の言葉を伝えることができて、本当に幸せを感じます。
神様は生きておられて、今でも働いておられます。
あなたは、私が経験したような間一髪で守られた経験はありますか?
何十年も生きていたら、一度や二度は、そのようなことがあってもおかしくはありません。
すぐに思い出せなくても、大なり小なり、危機一髪の経験をされているのではないでしょうか。
それを、偶然と考えるか? 神の守りと考えるか?
その答えはあなた自身が出さなくてはいけません。
ある無神論の人が、神社仏閣に行ってこう祈ったそうです。「もし神様がいるならば、私にわかるように教えて下さい」。
その時、心の中に不思議な安らぎと懐かしい気持ちが湧き上がって来て、子供の頃、クリスマスに教会に行って賛美歌を歌ったことを思い出したそうです。この方は、後日、クリスチャンになりました。
この文章を読まれる方の中に、無神論の人も、クリスチャンではない人もいると思います。
「そんなことがあるのだろうか?」「偶然じゃないの?」と思われるたでしようか?
聖書は、「神は今も生きておられる」と教えます。
あなたも今日祈ってみませんか?
「神さま、もし神がおられるなら、私にわかるように教えて下さい」と。
そして、与えられた命を大切にし、「命を与えられた使命のために使い尽くしたい」と思います。
「使命」は、「命を使う」と書きますが、「使命」とは、生活のために仕事をするとか、「野心」を抱いて、「見返してやるぞ!」とガンバルような小さなことではなく、「このことのためには命をかけても惜しくない!」と思えるほどの情熱のことを言うのではないでしょうか?
人の真の幸せは、「このことのために命をかけても惜しくないほどの使命」を発見し、その「使命」のために「命を懸ける」ことだと思います。
あなたには、あなたが考えるよりもはるかに重く、大きな使命が与えられています。
今日も素晴らしい一日でありますように。
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