「人の醜い醜態を知ること、その性質が自分の中にもあることを知ることが成長につながる」
「一日一シャ〈謝と捨と洒と写〉2019/4/10(水)【1447】」
https://9001.teacup.com/sfk/bbs/19827 〈写真入り記事〉
牧師をしていると、人の本質を否が応でも見させられます。がっかりし、失望させられます。
しかし、それだけならば、人を裁き、勘違いした高ぶった人になる可能性がありますが、そうはなれません。
なぜならば、人の汚い本質を見て、絶望した同じものを自分の中にもあることを見させられるからです。
毎日、聖書を最低10章読み、1時間以上祈ることを心がけていますが、その中で、神様が私の本質に光を当てて下さり、鮮明に見させて下さいます。
預言者イザヤは、イスラエルの醜い醜態を見て、嘆き、罪を糾弾しました。しかし、主の聖さの前で、自分も同じ汚れを持っていることに気づかされました。
「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。『聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。』その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。そこで、私は言った。『ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。』すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。『見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。』」(イザヤ6:1〜7)
イザヤは、自分の汚れを知った時、「ああ。私は、もうだめだ。」(イザヤ6:5)と叫びました。
その時、主の火がイザヤをきよめ、贖い、不義が除かれました。
人が成長するためには、自分の本質を知らされると共に、「そのままではダメだ!」と感じて、神に救いと助けを求める心が必要です。
「クリスチャンは、所詮、罪人なのだから、そのありのままを認め、心のままに生きたら良いのだ!」と、ありのままと我がままを取り違えてしまう人に会うことがあります。
「悔い改めて、神に立ち返りましょう!」と牧師が語っても、「律法主義だ!」「頭が固い!」などと反発して、生き方を変えない人を見ることがあります。
しかし、その性質は私の中にもあるのです。
だから、安易に人を裁くことはできません。
だからと言って、罪の中に留まることを肯定できません。罪は、神を悲しませ、人を傷つけ、自分を破滅に向かわせるからです。何一ついいことはありません。
人の醜さを見て、裁いて、そこで終わってしまったとしたら、自己満足で終わり、成長は止まります。
「人の振り見て我が振り直せ」ということわざがありますが、人の欠点はよく見えるのに、自分には甘いという人がいます。
しかし、人を簡単に責められないのは、そういう性質が私にもあるし、みんな持っているからです。
神様は、恵みと愛によって、自分の汚れと醜さを見させ下さり、赦し、きよめて下さり、成長させて下さるのです。
人は、成長した分だけ幸せになり、祝福され、豊かになれます。
そして、愛と正義を持った人に近づけるのです。
人は、多くの場合、偏ってしまうのです。
寛容な人は、「何でもいい!」と言って、いい加減になり、厳しい人は、厳格になって、狭く、頑固な人になります。
しかし、自分の醜い本質を知り、神の憐れみを求め、神の赦し、贖い、きよめを経験した人は、愛と謙遜な心を持って、人を正し、人を指導できるようになるのです。
かつての私は、自分の醜さを見て、知ることで、人に注意したり、指導できない人間でした。しかし、神の光によって自分の醜さを知らされ、神に憐れみを求め、神のきよめを経験した後には、優しい心で厳しい指導ができる人間に変わりつつあります。
「兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。」(ガラテヤ6:1〜2)
柔和な心で人を正すことができる人になれますように。
神の恵みに感謝を致します。
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