「失敗と聖書から学べ」
「一日一シャ〈謝と捨と洒と写〉2019/3/23(土)【1431】」
https://9001.teacup.com/sfk/bbs/19771 〈写真入り記事〉
数多くの失敗を重ねて来ました。その経験が今の私を形成しています。
して良かった失敗は数知れませんが、出来ればしなくて良かったという失敗もあります。
結論から言えば、すべての失敗が糧となり、私を強くし、成長させてくれました。
しかしそれは、神の恵みがあってこそのことです。
「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」(ローマ8:28)
ただ神の恵みに感謝するのみです。
しかし、だからと言って、間違った道を歩んでいると知りながら、そこに突き進むのはよくありません。
クリスチャンは、聖書で明確に正しい道が示されています。それを知った上で、自ら進んで罪の道を選び、自分の思いのままに突き進むとしたら、神を侮っていることであり、神の裁きが下って痛い目に遭うことになります。
私が経験したことの中に、「わかっていてもやめられない」ということが数多くありました。
そして、自分の意思や努力ではどうしようもないことは誰でもあります。
その時、神に祈るべきです。
神はその祈りを喜んで下さり、助けて下さり、正しい道を進ませて、祝福して下さいます。
私は、数多くの失敗をしたからこそ、「二度とその道を歩まないように助けて下さい」と神様に祈りますし、人々を導きます。
数多くの失敗を繰り返したからこそ、寛容になれる面があります。しかし同時に、厳しくならざるを得ない面があります。
数多くの失敗の経験は、私にとって大きな恵みであり、宝です。
「じゃー、難しく考えないで、思うように生きたらいいんじゃない!?」という考えに対して、私は「NO!」と言います。
使徒パウロは、「罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。」(ローマ5:20)と語りました。
そうしたら、「恵みがあふれるように、もっと罪を犯そうではないか!?」という人が必ず出て来くるものです。
聖書には続きがあります。
「それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。」(ローマ6:1〜2)とあります。
罪を犯すということは、それだけ多くの傷を受け、傷むのです。罪を犯さない方が良いに決まっています。
ある場合には、後悔しても後悔し切れなくなることさえあるのです。
「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」と言われます。
自分の失敗、他人の失敗から学びましょう。
何より、聖書を読み、聖書の言葉に導かれて人生を歩んでいきましょう。
今日も、神様の恵みの中で守られ、生かされていることを感謝いたいと思います。
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