「イスラエル(36〉〜ヴィア・ドロローサ〈Via Dolorosa(苦難の道)〉〜」
「一日一シャ〈謝と捨と洒と写〉2019/3/17(日)【1425】」
https://9001.teacup.com/sfk/bbs/19752 〈写真入り記事〉
イエス様が十字架に付けられるまでに辿った苦難の道が14ステージ(留)に分かれています。一つ一つイエス様の苦しみを思い黙想しながら歩きます。
クリスチャンの巡礼者には欠かさないコースです。
ある意味、霊的で聖なる雰囲気はない場所ですが、それがまた良いのです。イエス様はそのような雑踏の中を見せしめのように晒され、苦難を受けながら歩かれたからです。
私たちは、今いるところをヴィア・ドロローサとして、約2000年前のイエス様に思いを馳せたいものです。
しかし、歴史のイエス様の黙想で終わらせてはいけません、昨日も今日もいつまでも変わることなく生きておられるイエス様に目を向けたいものです。
「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。」(ヘブル人への手紙13章8節)
イエス様に焦点を合わせる時に、いやしが起こります。イエス様の十字架こそが福音(グッドニュース)なのです。
「すると、主はモーセに仰せられた。『あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。』モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。」(民数記21章8〜9節)
「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。」(ヨハネの福音書3章14〜15節)
イエス様を見上げたら救われます。そして、生きるのです。
イエス様の苦難を思い、十字架に思いを集中しましょう。
「私たちの聞いたことを、だれが信じたか。主の御腕は、だれに現れたのか。彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、生ける者の地から絶たれたことを。
彼の墓は悪者どもとともに設けられ、彼は富む者とともに葬られた。彼は暴虐を行わず、その口に欺きはなかったが。しかし、彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった。もし彼が、自分のいのちを罪過のためのいけにえとするなら、彼は末長く、子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を彼がになう。それゆえ、わたしは、多くの人々を彼に分け与え、彼は強者たちを分捕り物としてわかちとる。彼が自分のいのちを死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられたからである。彼は多くの人の罪を負い、そむいた人たちのためにとりなしをする。」(イザヤ書53章1〜12節)
ここに、あなたが求めているすべての答えがあるのです。
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