ボブ・サップ、朝青龍と土俵で対戦 1000万円かけて大みそかに肉弾戦
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=54&from=diary&id=4910238
さて、マスゴミ共はこの一ヶ月間連日、ワイドショー等で貴乃花親方ガー、白鳳ガーと
「日馬富士暴行事件」報道一色に染まっていた場外戦九州場所ではあったが、、、
そんな中 まんもちゃんは、大相撲の聖地・両国国技館横にある
江戸NORENに内にある 「政五寿司」 に行って見た。
【江戸時代の江戸前寿司 】 伝統的な味を引き継ぐ「与兵衛ずし」
さて、前回は『江戸三鮨』について触れた。三鮨の内、既に2つは現存していない。
誰しもが一度は思いを馳せる
「江戸時代の人は、我々と同じ寿司を食していたのだろうか?」
結論から言えば、違う。似て非なるもの。むしろそれは現代のおにぎりに近いものだったと
言われている。 つまり、大きさからして違うらしいのだ。
ではいったい、江戸時代の寿司はどのようなものだったのだろうか?
日本橋の吉野鮨の先々代があらわした文献によると、、、
鮨の開祖と言われる『華屋与兵衛』は
霊岸島(東京都中央区にかつて存在した地名)生まれ。幼名は弥助(やすけ)。
伝染病で両親を亡くす。
1824年に華屋を開業。
ワサビを使い、現在の寿司に非常に近いものを出したことから、
一般には握り寿司の考案者とされる。
他の業者と競い豪華な寿司を提供したことから、奢侈を禁じた天保の改革の際には他の寿司職人ともども投獄されている。
文政7年(1824年)に両国尾上町(東両国)回向院前に小泉与兵衛が華屋の屋号で創業。
まぁ、当時瞬く間に大繁盛したらしい。
この調理がより簡略化された握り寿司が現れると、従前との対比でそれは「早ずし」と呼ばれて
庶民から有りがたれるほどだった。
要因としては
紀州からの下りものであった「醤油」が
ヤマサ一族の関東進出により
銚子や野田で新鮮な「紫」がふんだんに作られるようになったこと。
また、愛知半田の中埜酢店(現ミツカン酢)が
早握り鮨に最適な「赤酢」の開発に
成功したこと。
それらに加えて
すしにワサビを使ったのは、この華屋与兵衛が最初なので、
一般には与兵衛寿司が握り寿司の嚆矢とみなされている。
明治時代に出版された書物には、与兵衛が投獄された原因は、
旨過ぎたアナゴ寿司にあったと伝えているw
トロや中トロの登場以前は、江戸前鮨のスターは穴子と海老だったのである。
華屋の流れを汲む両国与兵衛寿司は維新後も明治から大正にかけて営業していたが、
関東大震災以後没落し、昭和5年(1930年)に閉店している。
ちなみに今日の和風レストランチェーン・華屋与兵衛とはまったく関係が無い。
文献の絵図によると、ネタはこのようなモノだったらしい・・・
【鮎押し鮓、白魚、鯖棒鮓、海老、小肌、鯛、鯵、鮪、穴子、海苔巻き、烏賊印籠詰め、鱒、
玉子】
【海老、鯛、こはだ、玉子巻、海苔巻き】
数年前に、墨田区・江東区・ミッカン酢の産学協同プロジェクトで上記の
『 与兵衛寿司 』のレシピ と実物を完全復刻する試みが行われた。
このとき復刻した『 与兵衛寿司 』のレシピをそのままに
現在も我々に提供してくれているのが、『 政 五 寿 司 』の大将
山口昌男さん(72歳)である。
現代の寿司と比較すると、彩色的にはいささか、華やかさに欠けるかも知れない。
それでも当時は『 華屋 』と評されるほど綺麗で豪奢なものと人々の目には
映ったのだろう。
また、現在の寿司酢や砂糖を多量にブチ込んだシャリの味に慣れた
我々の舌には、天然の赤酢 と 赤穂の天然塩だけで仕込んだ寿司は
少し塩辛く感じられるかも知れない。
政五すしでは、漬け鮪の赤身 と 煮穴子だけは、『江戸時代サイズ』で
握ってくれるので、現代版との比較をしてみるとよい。
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