前回、「沖縄と『アイデンティティ』」日記はかなり大きな反響を呼んだ。それだけ関心を持たれているのだと、痛感した。
そこで、続編を出すことにした。今回は歴史的に沖縄、琉球のアイデンティティ問題を見て行く。
そもそも、琉球王国内部に、親中派、親日派というのがあった。
それ以前、三山時代にも中国(明)に積極的に朝貢しようという動きがあった。明国の後ろ盾で強い国を作ろう、という意図があったのではないかと思われる。
1429年、第一尚氏王統の中山王、尚巴志によって三山(北山、中山、南山)が統一して「琉球王国」が成立する。このころの琉球人のアイデンティティは中国でもない、日本でもない、朝鮮でもないという独立したアイデンティティだったのではないかと思う。それを示す史料が残されている。かつて首里城正殿に掲げられ、現在、沖縄県立博物館・美術館に所蔵されている、通称「万国津梁の鐘」(ばんこくしんりょうのかね)に刻まれた銘文である。この鐘を作られたのは1458年で、施主は第一尚氏王統の尚泰久王である。銘文は次の通り。
「琉球国は南海の勝地にして、三韓の秀を鍾め、大明を以て輔車となし、日域を以て唇歯となす。此の二の中間に在りて湧出する蓬莱島なり。舟楫を以て万国の津梁となす」(書き下し)
以下和訳「琉球国は南海の素晴らしい土地で、朝鮮の優れた文物を集め、明国、日本と深い交流を持っている。明国、日本の中間にある豊かな島である。海洋交易で万国の架け橋となっている」
ここに見られるアイデンティティは日本とも中国とも独立したものと考えられる。両国の中間にある交易国家という認識である。
しかし1603年に江戸幕府が成立し幕藩体制が成立するとともに力のバランスが崩れる。1609年、幕府の許可のもと、薩摩藩は軍勢を奄美諸島、沖縄本島に派遣し、軍事侵攻する。奄美諸島は薩摩の直轄領となり、琉球王国の版図は沖縄、宮古、八重山となり、薩摩藩の間接統治下におかれる。この時、親中的なスタンスを取り、薩摩に強く抵抗した人物に謝名利山(じゃな りざん)がいる。
薩摩の支配下の琉球王国で現れたアイデンティティに「日琉同祖論」がある。日本と琉球は言語や文化に違いがあるが、共通の祖先を持っている、という考え方である。この考えは現在に至るまで広く通用している。
最初にこの考えを打ち出したのは琉球王国の政治家・歴史家である羽地朝秀(はねじ ちょうしゅう)である。羽地は若い時薩摩に留学した「親日派」。(以下コメント欄に続く)
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