10/16島田市博物館に行きました。
メインは大井川の渡しのことを知りたくていきましたが、
丁度島田市出身の洋画家北川民次他の展示も開催。
初めて行きましたので場所が分からなくて、大井川の
堤防を下がった運動場にいた方に道を訪ねましたら、
あと30m先を左折すれば良いと教わりました。〔笑)
江戸幕府の政策で、河川には橋を作りませんでした。
流れが急で水量の多い大井川は、東海道の難所とも
言われてましたね。
箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川
大井川は南アルプスが源流で、川幅も広く上流で雨
が降れば、たちまち川留めとなりました。川会所という
川越人足を統括する組織もあって、川越料金も現在の
価格に直してみても、「え、そんなに高いの」と感じる
値段でしたね。
展示物に沿ってみていきましょう。
大井川川越遺跡は、慶長六年(1601)に幕府は宿駅・傳馬の制度を
改めて、東海道に五十三次の宿駅を置き、主要河川である大井川に
渡渉の制度を設けた。当時の川越遺跡は島田市河原町にあり、川会所
の建物はじめ、人足宿や札場なども諸施設も現存する。
川会所の役割は、川庄屋がいて、日々の川の深さに応じて渡渉賃金の
決定や、公家や大名など各種公用人から庶民に至るまでの渡河の順序
の割り振りや、既定の渡る地点以外から越える回しの越し監視なども行
った。また水の量が少ないときでも、自分越しは禁止されていて、必ず
人足によらなければならなかった。
侍の乗馬越しや旅人の馬子による馬越しの際にも、川越し人足が付き
沿った。大井川の川越制度は1696年(元禄九年)に定められた。
�‥肋鎮賄�
��渡渉時間(朝6時から、夕方6時まで)
��川越賃銭はその日の水深によって決まる、
股通水(深さ2尺五寸)==48文
脇通水( 銅 四尺五寸)==94文
乳通水(や帯通水に応じて定められていた。
脇通水異常の深さの際は、渡るのは取り止めと定められていたという。
普通の一般の旅人は、川越人足の肩車で越すがこの場合は切符一枚
(油札)を、また蓮台で越すときは四人で担ぐため切符四枚と台札(人足
切符の二枚分または四枚分)とを川会所で買って渡渉した。(蓮台には
一人の場合と二人の場合がありました)この制度は明治三年五月まで
行なわれました。〔1870年)
川越し人足
江戸時代、大井川の川会所には、川庄屋の下に、年行事、小頭、口頭、
待川越の役のものがああり、その下に約350人の人足が配置されていた。
これは金谷側でも同じ数の人足がいました。全体が10組に編成され、日々
の交通量により数組が出動したが、大通行の時には、全員が出動した。
組の腸が小頭であり。また特に水練に長けた者は、待川越の役となり、
日々の水深を計測したり、渡渉中の事故に対応することや、御状箱の渡し
などを行った。
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