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2016年08月17日00:04

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ストルガツキー兄弟(1964年)『神様は、つらいよ』 ―― Hard to Be a God ――

 ロシアのSF作家、ストルガツキー兄弟が1964年にかいた『神様はつらい』(原題:Трудно быть богом)は、旧ソ連圏において、よく読まれている作品の一つである。
 この小説は1989年(ペーター・フラインシュマン監督:邦題『惑星アルカナル』)と2013年(アレクセイ・ゲルマン監督:邦題『神々の黄昏』)の2度にわたって映画化されているのみならず、ゲームまで発売されているくらいである。

 1995年の関西圏での深夜放送で僕はこの映画を見たのだが、浪人時代にこの作品から受けた衝撃は、かなりのものであった。でないと、20年以上を経た現在において、このような日記を僕に編ませることはなかったのだから…。


 今回の日記は1989年版の映画『惑星アルカナル』を主として編んでいく。たまに、2つの作品が混じってレビューされているところもあるので、ご注意されたい。
 なお、ストルガツキー兄弟のうち、兄のアルカージー[1925-1991]は、なんと!日本文学の研究者であり『神様はつらい』の中にも徳川家康の名を認めることができる。
・・・もっとも、策略ばかりをはりめぐらす権力者としてではあるが。

 では、作品の紹介にうつろう。
 今から数百年後の地球人は、太陽系の遥か外側へと宇宙船を送り出せる技術を持つようになり、ようやく、我々とよく似た異星人の住む惑星アルカナルを探り当てた。
 舞台設定が、これまた絶妙で、地球よりも小さなこの惑星の文明水準は、世界史でいうところのルネサンス初期の段階で停滞していた。文明上の進歩を恐れた為政者と聖職者とによって大学は閉鎖。知識階級は「弾圧」などというレヴェルを通り越して大殺戮の憂き目にあっていた。
 この憂鬱な反知性の王国においては、「文明の進歩につながる」と見なされた全ての行いが自殺行為となった。本を読むのはもちろんのこと!草木の記録を採るのもダメ、夜空を眺めることも禁じられた。
 
 小説のうえでの話とはいえ、ここまで徹底した反知性主義も珍しい・・・。

 このような事態を深く憂慮した地球人たちは、貴族等の有力者へと変装させた数10名の学者たちを、この惑星へと送り込む。
 彼らの役目は、
�,海力農韻涼戯此Υ兮�
�⊂�来有望な知識人をかくまい、殺戮から守ること
 であり、間違っても惑星アルカナルの狂気の権力機構を「変えよう」などとは考えてはならないと、クギをさされていた。

 学者の世界でいうところの、一種の「参与観察者」であり、フィールドワーカーとして学者たちは惑星へと降り立ったのである。
 余談ながら、このようなフィールドワークは、我らが住む現実世界においても文化人類学や都市社会学、そして、労働社会学などにおいてみることができるし、動物等の観察のみに徹したフィールドワークならば、NHKの動物番組『ダーウィンが来た!』において見ることができる。

 次に、主人公を紹介させてもらおう。
 様々な知識と文明を身にまとったうえで、「暗黒の中世」同然の世界へと降り立った学者たちは、たちまちのうちに「神同然」の扱いを受けることとなる。
 そのような学者たちの1人がエストリアの貴族、ドン・ルマータであった。
 彼は工学などの学問をおさめておるばかりか、こっそりと持ち込んだヘリコプターの操縦をやってのけ、剣術の腕も達者であった。加えて容姿もよかったことから、女性にモテまくり、かの惑星に恋人をもうけていた。
  しかし、そのような彼ですら、中世同然の世界に対しては為すすべが殆どなかった。
 彼が地球の本部から受けていた密命は、この憂鬱な狂気の王国における唯一のまともな医者であるブダッハを殺戮から保護し、隣国へと亡命させ、この王国の再建の礎とすることであった。
 しかし、ブダッハはどこを探しても見つからなかった。
 

 余談ながら、ドン・ルマータの視界はテクノロジーによって、惑星アルカナルの周回軌道上の宇宙船に居る地球人とも共有される仕掛けになっていた。もっとも、この仕掛けは「よくできて」おり、ドン・ルマータが恋人と性交渉に及んだ時にはエラーコードと共に「disconnect」と画面に表示され、一時的に接続が絶たれるようになっていたりする(笑)。
 そして、それを見た宇宙船上の地球人たちは、一様に顔を赤らめたのであった・・・。

 話をこの映画のあらすじへともどそう。
 主に商人たちから組織された「灰色隊」と呼ばれる親衛隊が学者たちを惨殺し、貴族たちからなる肝心の統治機構は権力闘争に明け暮れていた。そして、そのような状態において、僧侶からなり、統率はとれてはいたものの、どこまでも残忍な武装修道会が権力奪取の機会を虎視眈々とうかがうという有様だった。
 そして、彼らが頂く王様は、とっくに精神に異常をきたしており、イヴァン雷帝以下の圧政を更に凄惨なものにするのを促す存在にまで、・・・なり下がっていた。
 なお、地球の本部からの命令は受けてはいなかったが、ドン・ルマータは将来有望で聡明な幼い皇太子を、本物の騎士さながらに「自らの命をもってして」護ろうと、密かに心に誓っていた。

 では、このような状況下において、どのような人物が幅を利かせていたか?
 アルカージー・ストルガツキーは、策略について「 策略は賢者の武器ではなく、能力や人望等に劣った愚者の武器である」と、述べている(正確な引用ではないので、ご注意を)。誠に慧眼である。知識や人望のある人々の殆どは死に絶え、後先を考えずに策略を張り巡らす者が「我が世の春」を謳歌していたのであった。

 農民のような生産者階級も勿論存在する。
 彼らはなりをひそめ、肩を寄せ合い、汚泥と土埃の中でのたうちまわりながらも細々と穀物等を生産する日々を送っていた。
 しかし、農民たちの中からリーダーが現れ、貧農一揆を起こすものが現れる。狂気で満たされた貴族をはじめとする統治機構は、当初は親衛隊を差し向けて鎮圧にあたらせるが、積年の恨みに燃える反徒を抑えるには力不足であった。
 貧農一揆の反徒たちが親衛隊と互角に渡り合う様子を、周回軌道上にある宇宙船から見ていた地球人とドン・ルマータは、反徒たちに声援と喝采を送る。

 だが、それもつかの間、先述の武装修道会がこの反乱に介入した。彼らは残忍に貧農一揆を鎮圧し、投降者を逆さ吊りにするという凄惨な方法で一揆の参加者を処刑する。

 だが、悲劇はこれで終わらない!
 
 反乱を鎮圧することによって発言力を得た武装修道会は、王都へと凱旋!そんな彼らが真っ先にしたことは、商人たちからなる親衛隊から権力を奪取することであった。それから時間を置かずに、親衛隊のメンバーのみならず有力貴族たちをも、今度は串刺しの刑でもって殺戮し始めた。
 …やがて、ドン・ルマータの恋人と皇太子にも命の危機が迫るようになった。
 貧農一揆の指導者と医師ブダッハを救出したドン・ルマータは、このような状況を目前にして理性を失い、禁じ手であるレーザー銃(洒落た言い方をするなら、さしずめ「ブラスター」か)で武装修道会のリーダーを射殺する。
 この後、昏倒したドン・ルマータからレーザー銃をもぎ取った貧農一揆のリーダーが怒りに任せてレーザー銃を乱射!武装修道会の僧兵たちが皆殺しになったところで、事態を収拾するために地球人たちが周回軌道上にある宇宙船から降り立ち、ドン・ルマータ=地球人の学者を宇宙船へと収容したところで物語は幕を閉じる。

 劇中においてドン・ルマータは肩を落として、タイトルにあるとおりに「神様であることは、つらい」と嘆くが、そこで問われているのは、我らの世界にタッチできない「神」のありようではなく!現実にのたうちながらも、世界を少しでも変えうる「我々」のありようなのである。
 
 そして、この作品にみられるような反知性主義が、「他人事」や「小説の上での出来事」ではなくなりつつあることが、どうにも気がかりなのである。

 


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