http://9001.teacup.com/sfk/bbs/16513 (写真入り記事)
私たちは、「自分のことは自分が一番よく知っている」と思うものではないでしょうか。
しかし、自分だけが知っている自分もありますが、自分が知らない自分もあります。
自分と人が知っている部分それぞれあると思います。大別しますと・・・、
�� 自分も他人も共に知っている自分
�� 自分は知っているけれど他人は知らない自分
�� 自分は知らないけれど他人は知っている自分
�� 自分も他人も知らない自分
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�∩嚢圓琉�さ、知られたくないので他人に隠している部分があります。
��しかし、自分は知らないのに、人が気づいている部分があります。これは、他人の言葉に耳を傾けることで�,剖瓩鼎韻襪海箸�出来ます。
�ぜ�分も他人も知らない自分という領域があります。それは神が知っておられます。この部分に関しては神に聴くほかありません。
「主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。あなたこそは私のすわるのも、立つのも知っておられ、私の思いを遠くから読み取られます。あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。」(詩篇139:1〜4)
「私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。」(詩篇139:15〜16)
今日は久しぶりに「東京プレヤーセンター(TPC)」で説教をしてきました。
20名弱の人が集まってくれましたが、毎日いろいろな説教者の説教を聞いていますので、耳が肥えていると思います。「私の説教をどのように受け止めてくれるのだろう!?」と考えました。
集会が終わった後に、口々に「わかりやすいお話でした。ありがとうございます。」と言ってもらえました。
ということは、心と心が通い合い、メッセージが心に届いたのだと思います。
いろいろと忙しかったため、説教のための準備の時間がほとんど取れなかったため、心配しましたが、取り越し苦労でした。
いや、きっと心配したことも良かったのだと思います。「神様助けて下さい!」と祈りながら講壇に立ったので、神様の助けを得ることができたのだと思います。
もちろん、面と向かって「今日の説教は今一でした」なんて露骨に言う人はいないと思いますので、聴衆の表情や反応を見ることで説教がどのように受け止められたかを知ることができると思います。
ある場合は、自己満足で終わる場合もあり得ます。自分の演説に酔いしれて、聴衆の聞くに堪えない苦しみを理解できないで、「あー、良い説教をすることができた。みなさんが大喜びでした!」と勘違いすることもあります。私はその説教を一番前で聞いていたので、そういう実例を知っています。
しかし、「今日の説教はダメだった!」と心痛めているし、聴衆の反応もあまりよく感じないけれど、心の深い部分に聖書の言葉が届き、人生を変えるような説教であることもあります。
本当のところ、わからないことが多いので、いちいち詮索するよりも、神に委ねて、前に進むしかありません。
私が心がけているのは、「神の聖霊の力により、ありのままのイエス・キリストを伝え、結果を神に委ねる」ことです。
集会後には、センターの代表とレストランで食事をし、いろいろな情報交換をしてから帰宅しました。
帰り道、「また近々説教に来て頂けないでしょうか?」と声をかけられましたが、「今度電話をします」と伝えて帰って来ました。
ところで、今日の集会には、旧友が応援しに来てくれました。うれしかったですね。
今日の集会では、ギター演奏もした。終わった後、荷物運びを手伝ってもらいました。
その時、車の後ろの左側のブレーキランプがついてないことを教えてくれました。
教えてもらわなければ、おそらく自分では気づきません。そして、パトカーにとめられて、整備不良で違反の青切符切られた可能性があります。
旧友に礼を言って、その足で先日車を修理してくれた工場に向かいました。
電球のカバーを外し、その場で電球を交換してもらいました。
実は、その修理工場は常連です。板金専門の修理工場なので、行かないのが一番です。行く時は、車がぶつけられたか何かで修理してもらう時ですから。
年の頃は私と同じくらいでしょうか。社長は女性です。PTAでお会いするお母さんの一人のような雰囲気で、ジーパンにカラフルなTシャツ姿です。
「最初、社長と知った時はびっくりしましたよ」とお話しすると、「私もびっくりしました。知り合いで牧師さんは菅野さんだけですから」と言い合いながら、笑顔のうちに帰って来ましたが、「これは責任重大だな」と感じないわけではありません。
しかし、私は善人面するのは嫌いです。肩がこりますし、楽しくありません。
神様に愛されている自分を受け入れ、飾らないで人と接したいと思います。
人との関係の中で知る自分もありますが、その評価はちょっとしたことで変わります。散さんざん持ち上げてくれた人から急にはしごを外されて、悪口を言われたり、引きずり下ろされるようなことも起こりえます。
大切なのは、神の評価です。
自分も、他人も知らない自分でも、神は知っておられます。
神は、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(イザヤ43:4)と見て、評価しておられます。
どうぞ、その事実を知って下さい。
一日お疲れさまでした。
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