http://9001.teacup.com/sfk/bbs/16508 (写真入り記事)
「押してダメなら引いてみな」とは「恋愛の駆け引き」に使われる発想です。ドアも同じです。押して開かなければ、今度は引いてみたらいいのです。
人生のあらゆることにおいても同じです。
若い頃は、押しの一手でごり押しました。開かなくてもさらに押しました。たいていはこれで開くものです。
聖書が教える基本姿勢は、神に対して「求めなさい。そうすれば与えられます。」とあり、人に対して「与えなさい。そうすれば与えられます。」と語られています。
しかし、神に求めても、求めている内容が神の御心に反しているとわかったなら、求めをストップする必要があります。
また、人に与える心は大切ですが、自分が必要とするものまで与える必要はありません。
人は、目に見えない神に求めるよりも、目に見える人に求めたくなるものであり、人に与えるよりも、人から受けることを求める本性があります。
だからイエス様は、『受けるよりも与えるほうが幸いである。』(使徒の働き20:35)教えられました。
確かに、「与えるより受けるほうが幸いである」と教える人が居たら、その教えの方がわかりやすく、受け入れやすいです。しかし、そのような内容をあえて聖書に記す必要はありません。わかりきったことだからです。
しかし、『受けるよりも与えるほうが幸いである』は、普通は思い付きません。それがわかっていたら、この世界は天国のようでしょう。
「押してダメなら引いてみな」は、テクニックのような気がするのであまり好きではありません。
しかし、人間関係の中で、相手が嫌がるなら、それをやめて、相手が願うことをしてあげたくなるものです。
これが人間関係であり、愛なのです。
しかし、「押してダメなら引いてみな」のニュアンスの中には、相手を愛する心から出ているものではなく、相手を意のままに操るためのテクニックとして使われることがあります。
熊本地震で被災した人たちを思って祈ったり、募金をしたり、物資を送ったり、ボランティアに行くことは愛です。
しかし、この機会を通して善を行うことで、人からよく思われたり、名声を得ようという動機で行われる場合があります。
聖書は、それを「空しい」と教えます。また、「無に等しい」とも教えます。
『たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。』(第一コリント13:3)
ところで、今日は久しぶりに説教の準備をしました。
私には、説教をする賜物はあるのに、説教を準備する賜物はないと感じるくらい、準備には時間がかかります。
もし、説教をする賜物があるなら、説教を準備する賜物もあるはずです。苦労するのは私だけではありません。
神学校時代、「説教の準備には、20時間以上かけなさい」と教えられました。
仮に、月曜日から金曜日まで説教の準備をするとしたら、一日4時間準備をして、五日で20時間です。
始めのうちは20時間かかりました。おそらく、ベテランの牧師で一度の説教に20時間かけている人はまずいないと思います。
効率からいっても理にかないません。
一週間の大半の時間を説教の準備にあてて、何と、一回語って終わってしまうのです。
私なら、5時間祈り、5時間実践し、5時間で説教準備を終えます。もちろん、5時間の祈りと5時間の実践も説教の準備の中に加えても問題はないと思います。説教は、神と交わり、実践することの中から生まれてくるからです。
説教準備において、押してダメなら引きます。つまり、説教の準備が進まない時には、一度棚上げします。頭を切り替えて神に祈ったり、別の仕事をします。疲れていたら一休みします。これが説教準備における「押しと引き」です。
今日は、そんな「押しと引き」をしながら、一日説教準備をしながら過ごしました。
一回の説教準備をしながら、神に徹底して扱われます。
説教は、ただ頭で考えて、それを原稿にして読み上げるだけではないからです。
説教の内容が、内面に形造られ、実践するというプロセスを経るからです。
例えば、「人を赦しなさい!」という説教を準備しながら、赦せていない人を思い出し、その人を神の手に委ねて、徹底して赦すことに導かれ、時には、その相手との関係改善も求められます。そのようにしながら準備が進められるのです。
新しく生まれ変わるようであり、新しく脱皮するような命がけの行為です。
しかし、そういう準備をしなければ説教を語ることができないので、致し方なく準備をしますが、そのおかげで、私自身が神から心さぐられ、取り扱いを受けることができるので幸いです。
私にとっては、毎週この時間が十字架です。
しかし、みなさんそれぞれが自分に与えられた十字架があると思います。
ある人は、「結婚とは人生の墓場である」といいました。そんな発想を持津人は不幸ふだと思いますが、その結婚生活をキリストと共に乗り越えるなら、その結婚関係という十字架を通して自我に死に、相手を赦すことになるので、結果、愛することになるので幸せですし、死んでも復活し、成長し、前進することになります。
十字架とは、苦しむことではなく、死ぬことです。
しかし、死の向こうには復活があります。イエス様の十字架の向こうに復活があったように、その都度、新しく生まれ変わり、成長し、前進する時になると思います。
『私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。』(ガラテヤ2:20)
一日お疲れさまでした。今日も一日ありがとうございました。
ログインしてコメントを確認・投稿する