http://9001.teacup.com/sfk/bbs/16494 (写真入り記事)
今日は、午前中から妻と一緒に外回りをしました。
私たち夫婦はタイプが真逆です。だからいつも一緒に行動をするとしたら、お互いに譲り合ったり、調整し合う必要があります。
だから、通常は私一人が外部の仕事に出かけ、妻は家の仕事をすると割合が圧倒的に多いです。
食事は一緒にするし、家にいる時はできるだけ一緒に過ごしますが、仕事をする時は別々にやることが多いです。
私は、外に出て人と会い、語り合い、行動し、仕事をすることが好きです。しかし妻は、一緒に仕事に行っても、この時間があったら家で片づけをしたり、洗濯をしたり、本を読んだり、ゆっくり考え事をするのが好きなタイプです。
ちょっと遠くに出かけると、すぐに半日や一日が過ぎてしまいます。この時間に別々に仕事をし、行動をしたならば効率が良いことに気づきました。
週に一度は、最近教会を休んでいる教会員宅を訪問したり、買い物をしたり、二人で会いに行く必要のある場所に行きます。
今日は、二人で出かける一日でした。
昨日に引き続き、クリスチャンの直球勝負の映画試写会に行きましたが、今日は妻も一緒に誘って行きました。そうすると、子どもたちが学校から帰って来てしまうので、下の子を一人にするのは心配なので、子ども二人を連れて、四人で「復活」の映画を見ました。
昨日見た「祈りのちから」なら子どもにもわかったと思いますが、今日の「復活」は子どもには高度でした。
今まで見た映画の中で、「ナザレのイエス」「ジーザス」「パッション」「サン・オブ・ゴッド」など、そのほとんどが十字架のシーンが中心で、最後、「復活した」というところで映画が終わりますが、今日の「復活」は、十字架のシーンから始まり、復活した後がメインでした。
聖書をある程度知っていないとわからないし、面白くないと思います。
映画は、聖書の実話に基づいていますが、そこに、ローマ軍の司令官であるクラディウスという人物にスポットが当てられています。
ユダヤの大祭司をはじめ、総督であるポンテオ・ピラトは、「弟子たちがキリストの遺体を盗んだに違いない」と考え、キリストの遺体を探し出すことに躍起になっています。その命を受けてキリストの遺体を捜すクラディウスは、使命を遂行する途中で復活のイエス様と出会いました。
しかし、目を放した隙にイエス様は消えてしまいました。
イエス様は弟子たちに、「あなたがたより先にガリラヤに行く。そこで再びあなたがと会うであろう」といわれていたので、弟子たちはエルサレムを離れ、ガリラヤに向かいました。
その旅にクラディウスもついて行きました。
この時点でクラディウスは、ローマ軍の司令官の仕事を半ば辞職し、イエス様の求道者になっていました。
途中、ローマ軍に取り囲まれましたが、この時には、すでに弟子たちの側に立って、かつての部下に剣を向けて、しかし、後にイエス様に習って剣を降ろして、その場を立ち去りました。
人が少しずつ変えられていく姿を見て取ることができました。
ガリラヤに着くと、そこでイエス様の奇跡を目撃しました。
そして、イエス様は「全世界に出て行き伝道しなさい」と大宣教命令を出されて後に昇天して行きました。
クラディウスは、弟子たちから「一緒に行かないか?」と誘われました。
弟子たちは、人間を取る猟師として献身する決意をかためていましたが、クラディウスはまだそこまでの決意はできていませんでした。
最後、ユダの荒野を歩き、ある家にお世話になりながら、イエス様のことを思い起こしながら、ローマ軍の司令官の指輪をお世話になったお礼に差し出しました。
クラディウスがイエス様に従う決意をしたのか、その後どうなったのかはわかりませんが、イエス・キリストと出会うならば、人は変わる。変えられるということを改めて痛感しました。
今まで、数え切れない人がイエス様と出会って、その人生が変えられました。
それは、「神に従わなければ裁くぞ!」と脅かされて、ビクビク、嫌々、仕方なしに従うのではありません。
神の愛に触れ、感動し、従いたくて仕方なくなり従うのです。これが、クリスチャンの生き方です。
もちろん、イエス・キリストの教えが人間中心のキリスト教になり、「ああせい!」「こうせい!」という宗教に成り下がってしまっている宗派、教派、教会があるという現実は否めません。
これはキリストが意図したことではありません。
クリスチャン映画三本立ては、まもなくはじまります。
未信者の人には、キリストを知るチャンスとなり、クリスチャンにとっては、歪んだ信仰を悔い改め、キリストに立ち返り、献身するきっかけとなることを心から願います。
午後2時から復活を見ましたが、夜6時半からやる「祈りのちから」はぜひ妻に見てもらいたいと思い、私は集会の奉仕の仕事があるので、妻を会場に送り届け、私は仕事に向かいました。
今日は特別な一日でした。
結婚してまもなく20年が過ぎようとしています。その中で学んできたことは、お互いに同じ人間ではなく、別の人格を持った二人だということです。
聖書は、「結婚した二人は一体である」と教えますが、それは、「全く同じになる」のではありません。また、「どちらかがどちらかに完全に従い切る」というのでもないと思います。
相互補完関係で生きることだと思います。
相互補完関係とは、それぞれが相手の不足を補い合う関係です。
これが夫婦の理想的な姿だと思います。
これができたならば、社会でも、教会でも、どこででもそれが可能になって来ると思います。
もちろん、集団生活を学ぶことは大切です。しかし、集団でみんなが全く同じになるというのは問題だと思います。
学校や社会では、もっと相互補完関係を教える必要があると思います。
みんな違って、みんな素晴らしいのです。
人は、すぐに人と自分を比べたがります。そして、優劣をつけます。しかし、そんな優劣は自己満足に過ぎません。
相互補完関係をもっと学んでほしいですし、私自身も学び続けていきたいと思います。
一日お疲れさまでした。また明日お会いしましょう。おやすみなさい。
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