http://9001.teacup.com/sfk/bbs/16201 (写真入り記事)
今日は、一日バイクに乗って外回りの仕事に出かけました。寒さが身に沁み、午後からは小雨が舞ってきましたので、カッパを着て運転しました。
その頃、妻は、買い物のため自宅から少し離れたところを歩いていました。
具合が悪くて動けなくなっているおじいさんに目が留まりました。
「何とか助けてあげよう!」と思って声をかけると、とても具合が悪く、すぐにでも救急車を呼んで病院に行かなければならないような状態でした。
まず、通りががかる遊び人風の男性に声をかけました。見て見ぬふりをして立ち去っていきました。
次に女子学生に声をかけましたが、忙しいそうに足早に立ち去っていきました。
主婦やサラリーマン、そして、いろいろな人に声をかけて助けを求めましたが、みんな、無視したり、ヘッドホンで音楽を聞いたり、「自分のことで精一杯!」という雰囲気で去っていきました。
やっと一人のおばあさんが立ち止まってくれて、自分の携帯で119番に電話をして救急車を呼んでくれました。
その間、いろいろと介抱してあげたようです。
「似たもの夫婦」という言葉がありますが、正反対のタイプのようですが、私も同じようにしただろうと思います。
消防団員なので、応急救護の資格を取らせて頂いていますし、訓練を受けています。
「私は消防団員です」と名乗り、通りがかりの人に、例えば、「何々を持って来て下さい」「誰々を呼んで来て下さい」「どこどこに電話して下さい」などと指示をし、「リーダーとなって下さい」と教えられています。
先ほどまで、誰一人見向きもせず、助けようとしなかったのに、妻と通りがかりのおばあさんが、具合の悪いおじいさんを介抱していると、次々に人が寄って来て、自分の服を脱いでかけてあげたり、競うようにして親切をしはじめました。
妻は、その姿を見て、「私は優しい人ですよ。こんなにがんばっているんですよ。ほめてください」とアピールしているように感じたそうです。
「終わり良ければすべてよし」という言葉がありますが、親切な行いをすることは素晴らしいですし、称賛されることもあります。
しかし、本当の親切なのではなく、親切な善人に見られたくて、良い人を演じているということもあります。それは偽善です。
『わざわいだ。偽善の律法学者、パリサイ人。おまえたちは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいです。そのように、おまえたちも外側は人に正しく見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。』(マタイ23:27〜28)
妻の話を聞きながら、「見せかけではなく、心から人に親切ができる人になりたい」と思いました。
『お互いに親切にし、心の優しい人となり・・・なさい。』(エペソ4:32)
人は、自分が「I am OK!」と思いたいので、そう感じられるように一生懸命に努力をします。
しかし、出発が「I am not OK!」ですから、ボタンの掛け違いのように、うまくいくいくことはありません。
うまくやれると心高ぶり、傲慢になり、うまくやれないと、自己卑下し、劣等感に苛まれます。
実は、高ぶりも、自己卑下も、根っこは同じ「I am not OK!」。どちらに転んでも傲慢にしかなれません。
この「I am not OK!」こそ、罪の典型的な症状です。
人は、「I am OK!」の存在として、神によって造られたのです。しかし、神から離れたことにより、自分に対して「I am not OK!」と考えるようになりました。
「I am not OK!」の原因は、神から離れていることです。
神に立ち返る以外に「I am not OK!」を「I am OK!」に戻すことはできません。
それにもかかわらず、無駄な努力をしているのが私たち人間です。
『ああ愚かなガラテヤ人。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に、あんなにはっきり示されたのに、だれがあなたがたを迷わせたのですか。ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。あなたがたがあれほどのことを経験したのは、むだだったのでしょうか。万が一にもそんなことはないでしょうが。とすれば、あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で奇蹟を行われた方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさったのですか。それともあなたがたが信仰をもって聞いたからですか。』(ガラテヤ3:1〜5)
どんな人でも、みんな「I am OK!」を目指しながら生きています。
聖人と言われる人は、「他より自分は聖い人間だ」と満足することで「I am OK!」を目指します。
素晴らしいと評価される人は、素晴らしい行いをして、さらに「素晴らしい人」と思われることで「I am OK!」を目指します。
アイドルは、人気者になることで「I am OK!」を目指して努力しています。
泥棒は、人のものをより多く盗み自己満足をすることで「I am OK!」を目指して生きています。
詐欺師は、人を騙して自分を「賢い人間」と考えることで「I am OK!」を目指しています。
悪人は、人から「極悪人だ!」と思われて人から恐れられることで「I am OK!」を目指して生きています。
不良少年は、髪の毛を染め、悪いことをしてまわりの人から注目を集めることで「I am OK!」を目指しています。
昔、欽ちゃんの番組に、「良い子」「悪い子」「普通の子」というのが居ました。世の中にいるすべての人は、「I am OK!」を目指しています。
「良い子」は良いことで「I am OK!」を目指し、「悪い子」は悪いことで「I am OK!」を目指し、「普通の子」は、普通に生きることで「I am OK!」を目指しています。
使徒パウロでさえも、その肉のからくりから抜け出せなくて、もがき苦しんでいました。
『私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。』(ローマ7:24)
つまり、良い人が、「I am OK!」と感じたいので良い行いをするのも、悪い人が、「I am OK!」を感じたくて悪い行いをするのも、根っこは同じ、罪なのです。
罪の治療法は、ただ一つ、キリストに立ち返ることです。
『わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。』(エゼキエル33:11)
どうぞ、神に立ち返ることで、「I am OK!」を目指して下さい。
人は、「I am OK!」な存在として、神によって造られたのです。
『私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。』(エペソ2:10)
「I am OK!」こそ、人間の真の姿です。
しかし、その方法は一つだけです。
今日もお疲れ様でした。神の祝福をお祈りします。
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