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2015年11月30日18:07

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「一日一シャ〈謝と捨と洒と写〉【237】 2015/11/30(月) 人はうわべを見る」

http://9001.teacup.com/sfk/bbs/16196 (写真入り記事)

今日は、驚くことがありました。しばらくフランクリン・グラハム大会の教会訪問で忙しかったので、断っていた来年5月の大会の実行委員会に遅刻して参加しました。

会場に入ると、音楽奉仕者をアレンジするリーダーを誰にしようかと決めていました。会場に入るなり、数人の人が、「菅野先生がやったらどうですか!?」と言われました。何もわからないのでじっと座っていますと、「私が音楽リーダーをやります!」という人が2人も現れました。きっと音楽アレンジメントリーダーは花形のポジションに違いないと思います。

次に、冗談じゃないかと思いましたが、実行委員長が私を総務局長に推薦してきました。一番向いてないポジションです。しかも、1300人の大会の総務局長は荷が重いです。じっと座っていますと、最後は、舞台監督(舞台進行係)をお願いされて主だった奉仕者が決まりました。事前の根回しがなく、その場で話し合って決めていくスタイルの会議なので、この分だったらまた変わるかも知れません。

超教派でいろいろな大会の奉仕に関わっていますので、コネクションを持ち、顔が広いと思われて大役に推薦して頂きましたが、私は小さなものです。力不足です。見た目は大きいですが、心は優しく、気は小さい方です。

与えられた仕事をただ忠実にさせて頂くのみです。

一番向いていると思う奉仕は、渉外や講師送迎です。先週行われたフランクリン・グラハム大会では、オーストラリアのヒルソングチームの送迎バスの運転の奉仕を楽しくさせてもらったばかりです。

本題に入りますが、聖書は、『人はうわべを見るが、【主】は心を見る。』(第一サムエル16:7)と語ります。ここには、否定も肯定もしないそのままの事実が述べられています。

アーサー・ホーランドという伝道者は、この言葉から、白いスーツを着て、新宿アルタ前で路傍伝道をはじめました。「人はうわべを見る」という言葉を肯定的に受け止めたのです。

今日は、前述の会議の前に、ハレルヤ牧師会がありました。会場は、いつも新宿福興教会、私のところです。

司会と説教をローテーションで行っています。司会は、何も準備しなくてもできますが、説教は緊張します。

会場は、いつも私が仕えている教会堂ですし、語る相手は、いつも親しくしている仲間の牧師たちですが、「釈迦に説法」いや、「牧師に説教」というのは緊張します。

祈っていると、神様が、「あなたは人をうわべで見ている」と示されました。

いろいろな牧師の説教を聞きますが、ある説教者の語る内容はとても新鮮で、とても刺激になります。ある説教者の説教は、すべて知り尽くしている内容を語ります。しかし、わかっている内容だからといって、それを体得しているとは限りません。

先日、日本武道館で行われたフランクリン・グラハム大会で、講師のフランクリンが語る説教は、すべて私も同じように語れるような単純なものでした。しかし、不思議ですが、そこに感動があり、多くのはじめてキリスト教の話を聞くような人が、「イエス様を信じたい!」と決心しました。

牧師会で、牧師相手に説教を語ることを負担に感じるのは、「なるほど〜」とうなるような説教や、「とても勉強になりました。ありがとうございます!」というような説教を語らないといけないという負担を勝手に感じていたんだと気づきました。

「人はうわべを見る。」私は、集まる牧師たちの「牧師」という肩書、うわべ、その働きを見ていました。

しかし、同時に見なければならないのは、牧師であっても、その人は私たちと同じ罪人であり、神を必要とする弱い存在だという点です。

神様は、最初の人を、土を粘土にしてこねて、それで人の形を形作り、そこに神の命の息である聖霊を吹き込みました。泥の塊に聖霊が吹き込まれると人間になりました。

『神である【主】は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。』(創世記2:7)

人間は、どれだけ神の命である聖霊に依存している存在だということが分かります。

神は、最初の人アダムとエバをエデンの園という楽園に置かれ、そこに一つの律法を定めました。

『あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」』(創世記2:16〜17)

アダムとエバは、そのたった一つの法律を破り、罪を犯しました。たった一つしかない法律を破ったということは、すべてを破ったことなのです。

結果、人から神の命の息である聖霊が離れました。

ということは、人を人たらしめる聖霊が離れたので、泥の塊に戻りました。

もちろん、すぐに死んだのではありませんが、アダムは930歳で死にました。

今の私たちも同じです。罪人=神の息が去った存在として生まれてきました。

しばらく生きているのは、神の命の息の力の残像が残っているので、最大120歳。通常70〜80歳で死にます。

『【主】は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう」と仰せられた。』(創世記6:3)

『私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。』(詩編90:10)

人は、すでに瀕死の状態にあり、もっと言えば、すでに死んでいる存在です。そうであるならば、人間は絶対絶望的な存在です。

相手が牧師であろうと、釈迦であろうと、総理大臣であろうと、誰であろうと、絶望的な存在と見て語らなければならないのです。

その絶望的な存在に向けて何を語るのでしょうか?

絶対的な希望を語るのです。

絶対的な希望とは何でしょうか?

イエス・キリストの十字架と復活です。

そこにこそ、絶対絶望的な人間を絶対希望の存在に変える力があります。

人をうわべで見ることは大切です。清潔感やきちんとした身なり、身だしなみは大切です。

しかし、うわべだけではなく、神が見るように、その人の心と実態を見ることも大切です。

つまり、どちらかに偏って見るのではなく、両方をバランスよく見ていく必要があります。両方あって人間だからです。

前述のように、先日のフランクリン・グラハム大会中の5日間は、音楽ゲストの送迎バスの運転手に専念していました。

3回空港を往復し、1日に何度もホテルと武道館を往復しました。気が付いたら、燃料が空になりましたので、ガソリンスタンドに行きました。

走行距離÷給油した燃料の量=1リットルで何Km走るかの燃費が出ます。

私の乗っている日産エルグランドは3500ccのV6エンジンです。スポーツカーのフェアレディーZと同じエンジンを積んでいます。

かたや、送迎に使ったマイクロバスは4000cc以上のディーゼルエンジンを積んでいます。エルグランドよりはるかに大きいです。

しかし、燃費を計ってみると、エルグランドよりもマイクロバスの方がはるかに燃費がいいのです。しかも燃料は軽油です。エルグランドはハイオクです。

単純にガソリン代だけを考えたら、マイクロバスの方が安い計算になります。もちろん、駐車場は乗用車の2台分以上必要ですので、単純計算はできませんが。

うわべだけを見ると、バスの方が燃料代がかかるように見えますが、実際は、それよりはるかに小さいミニバンの方がはるかに燃料大食いです。

友人の中に、痩せの大食いがいます。私よりはるかに多く食べるのです。しかし、痩せています。これも、うわべだけで判断できません。うわべだけを見たら、その友人と私では、私の方が2倍くらいの食事をするように見えると思います。

「人は見かけに寄らない」と言われますが、人をうわべだけで判断するのではなく、祈り、耳を傾け、その人の本当の姿にも目を向けていきたいものです。

インターネットの世界では、その人のうわべの姿は写真で見るだけです。しかし、コメントをいただいたりすると、その文章と文章の合間から、その人の優しさや、思いやり。あるいは、言葉は滑らかだけどするどい批判や、私を嫌っているなどを感じることができます。

私は、人と出会うと、名刺交換をし、すぐにメールを出します。また、facebookやlineをしているなら、そちらでもつながるようにしています。そうすることで、その人を全体として知ることができ、もっと親しくなり、関わり続けていけるからです。

毎日、みなさんと交わりができることに感謝をしています。神様の祝福をお祈りします。
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