http://9001.teacup.com/sfk/bbs/16182 (写真入り記事)
「あー、本当に終わったんだなー!」。寝ても覚めても大会の教会訪問のことで頭が一杯でした。大会の直前からは、バスドライバーのことで頭が一杯でした。みなさんに祈ってもらいましたが、大切なゲストを乗せているので、「絶対に事故を起こしてはいけない!」という緊張感で張りつめていました。
今、「終わった!」という解放感に包まれています。
一緒に教会を訪問したBGEA(ビリー・グラハム伝道協会)のスタッフの一人は、「この仕事は、一時的にものすごく忙しいけれど、終わったらしばらく休めるのでその解放感がたまらない!」と言っておりましたが、私も今、解放感で喜びに満たされています。
今日の午後からは、毎年、消防団員とその家族に招待して頂く観劇会に行ってきました。
ちょっとひと工夫をしましたが、子供たちだけで留守番ができるようになったので、妻と二人で、劇を鑑賞し、つかの間の解放感を味わって来ました。劇は面白いので、ずっと笑っていましたので、元気になって帰って来ました。
題は「かたき同志」。呉服問屋の一人娘と飲み屋の跡取り息子が恋に落ちたことから、それぞれのお母さんがかたき同志となっていがみ合うストーリーです。
それぞれの娘、息子を育てたのは母一人です。母一人、子一人で、子供の将来だけを楽しみに、すべてを犠牲にしながら働いて来たお母さん同士なだけに、どちらも、安易に結婚を認めることができず、会えば罵り合って、すごい喧嘩になりました。
そんなある日、恋に落ちた二人は駆け落ちをし、寂しい川の岸辺にある旅館に泊まりました。最初は仲が良かった二人ですが、それぞれが残してきた母親のことが気がかりで、喧嘩が始まりますが、その夜は、泊まった旅館の女将が、「一緒にお風呂に入って仲直りしなさい!」と諭したので、一晩は持ちました。
同じ頃、それぞれの娘と息子が家出をしてしまったので、心配な母親二人は、飲み屋で再会します。
お互いの苦労話をし合っているうちに、打ち解けてはまた喧嘩をし、打ち解けては喧嘩をすることを繰り返しているうちに、二人でお酒を飲むことになり、最後は大の仲良しになり、二人の結婚を認め合うところにまで話が進みました。
その頃、一晩を喧嘩しながら過ごした二人が別れを決断し、それぞれの母親のもとに帰って来ました。それぞれの母と子の四人が飲み屋に集まりました。
母親同士は、これから二人が夫婦になっていくことを喜び合っていましたが、肝心の娘と息子は別れて、別々の扉から出て行きました。その日は、そのまま散会しました。
翌日、娘に追い出された呉服問屋の女将は、一人息子の母親のもとにやって来て、再びお酒を飲みながら語り合いました。どんどん仲良しになっていきました。
かたき同志だった二人は、今や親友になり、家族同然となっていきます。
子育ての苦労を経験したお母さんたちは、「あー、わかるー!」と頷き、笑ったり、手をたたいたりしていました。四人の父親の私にも響いてくる内容で、笑って、楽しんで、頷いて、唸って、「なるほど!」と思って笑っているうちに、休憩を入れてですが、3時間の劇が終幕となり、今さっき帰宅しました。
私は、今日の劇を見終わって、こういうことが教会で起こったら素晴らしいなーと思いました。
仲良しで、気が合う同志とか、気が利く人、よくできる人、好かれる人は教会で受け入れられ、自分の居場所を見出すことは普通に起こりますが、他の教会員と仲良くなれず、気が合わず、気も利かず、要領がよくない、好かれないタイプの人は教会の中で自分の居場所を見出せているでしょうか? 深く考えさせられました。
教会も、世の中と変わらない罪人(つみびと)の集まりです。世の中とほとんど変わらない現実があることは否めませんが、そこで終わるのではなく、そこから次の関係に進んでいき、共に祈り合い、共に交わり、かたき同志のようでも、和解をし、仲良くっていけるようになってほしいと願います。
『天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。』(マタイ5:45〜48)
誰よりも神様は、天の父が完全な愛を持っておられ、私たちは、その完全な愛を受けたのだから、神の愛で赦し、受け入れ、愛していくことを願っておられます。
しかし、一足飛びに、『神があなたを愛しているのだから、あなたの兄弟を愛しなさい』と命じておられるのではありません。
まず第一に、『神があなたを、ありのままで愛しておられる。その愛を受けなさい』と語られます。
その愛を、知識として吸収して、納得する領域にとどまらず、神の愛を体験してほしいと願っておられます。
その神の愛を体験した人は、罪の病から心がいやされ、次第に人を愛せるように変えられていきます。
神の愛で心が満たされた上で、神から頂いた愛で愛していくのです。
その時の愛は、ギブ&テイクではなく、ただ愛し、ただ赦し、ただ受け入れていく愛です。
神の愛は、無条件で一方的です。
同じように、愛とは、無条件で一方的に与え、注いでいくものです。
人に期待すると裏切られます。人は罪という心の病にかかっているので、死のウィルスにおかされています。愛する力も余裕もないのです。みんなが同じ状態です。
私たちは、イエス様の愛なしには希望はありません。
しかし、イエス様にだけ希望があります。
教会が、仲良しグループになってしまうのではなく、かたき同志であっても愛し合える場所になる必要があります。神の愛を受けて、罪の病がいやされた人だけに与えられる力です。
愛せないのが私たちです。しかし、開き直るのではなく、愛せないからこそ「イエス様が必要だ!」ということに心を向けて下さい。そして、イエス様のいやしを受けて、愛に進んでいきましょう。
大会は終わり、つかの間の解放感を味わっていますが、大会自体は、全体の「10%」です。
つまり、準備に「45%」、当日が「10%」、大会後のフォローアップに「45%」の配分で力を注ぐことになっています。まだ約半分の「45%」が残っています。
たくさんの人が日本武道館に集まり、たくさんの人がイエス様を信じる決断をし、救いの確信を得ました。
それらの人々が教会に加えられ、教会の中に居場所を見出し、いやされ、成長していくことのためにまだ仕事が残っています。
つかの間の解放感に浸っていますが、本当の解放感に浸るのは天国に行ってからで十分です。それまで、主の働きをし続けていきたいと思います。
『私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。』(第一コリント15:58)
しかし、本当のところ、私たち人間の業には一握りの希望もありません。
希望は絶望の中で出会うイエス様にだけあります。イエス様と共に働かなければ、神の働きを邪魔してしまうことさえ起こり得ます。
教会が、イエス様と出会い、イエス様と出会った者同士が愛し合える場所となるために、そこに人間の業や、義や、律法の行いを入れてはいけません。
イエス様だけを求め、イエス様だけに希望を置き、イエス様だけに頼る必要があります。
妻と二人で、楽しい数時間を過ごしましたが、今からはじまるフォローアップのために心を入れ替え、備えていきたいと思います。
いつでも、終わりははじまりです。
幼稚園を卒業すると小学校に入学し、小学校を卒業すると中学校に入学し、やがて、就職し、結婚をし、子供が生まれ、おじいちゃん、おばあちゃんになっていくように、人生はいつでも、その終わりが始まりです。
最後、死で人生が終わりますが、同時に、永遠の命を得て天国での人生がはじまります。
共に、毎日新たなスタートをし続けていきましょう。
一日お疲れ様でした。また新しい一日が始まりますので、ゆっくり休んで明日に備えて下さい。
おやすみなさい。
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