http://9001.teacup.com/sfk/bbs/16128 (写真入り記事)
今日は、3〜4名で大会の教会訪問をする予定でしたが、リーダーの都合で中止になりました。
今日は突然の用事が入ったり、込み入った仕事がいくつもあったので、神様が時間が必要なことをご存じなので、急きょ中止にして、時間を下さったのではないかと思います。
急に一日の時間が与えられたので、まず朝一番には、風邪と喉がれの治療のためにいつもの国立病院の外来に行きました。
明日は、超教派の賛美集会があり、そこで歌う予定なので、少しでも声がれが治ってほしいこともからです。
予約なしの外来はお約束の2時間待ち。ラウンジで朝食を取り終わり、待合場所で順番を待っていると不思議な光景が目に飛び込んできました。
年の頃50前後の女医さんが、患者さん一人ひとりの診察が終わるたびに、出入り口まで付き添い、肩に触れ、荷物を手渡し、さらに、握手までして患者さんを送り出すのです。
牧師が教会員にこれくらいのことはしますが、国立病院の一医師が、親しげにおじいさんに寄り添い、ボディタッチをし、荷物を手渡したり、女性の患者さんには握手をし、さらに手を振って見送りました。
私の頭にはクエスチョン・マーク(?)が浮かび上がりました。
いくらなんでもやり過ぎなんじゃないか!? だからといって悪い気はしません。
コンビニのレジで買い物をしたあと、お釣りを渡すときに、私の手を左右の手で包み込んでお金が落ちないように手渡してくれる女性の店員さんに会ったことが何度かありますが、スキンシップが希薄な世の中、特に東京では心も体も触れ合う機会が滅多にありませんので、心温まる瞬間ですね。
2時間待って、やっと私の番が回ってきました。
外来担当の呼吸器の男性医師ですが、いきなりぶっきらぼうで、ニコリともせず、一言も敬語を使いません。
『今日はなんで来たの?』『あなた職業何?』『あーそー!』
態度は、偉そうで威張っていて、『何様のつもりだろう?』と思いました。隣の診察室の、ボディタッチをし、荷物を手渡し、握手をして見送る女医と正反対です。
医師(ドクター)なんだから、しっかり診察し、適切な薬の処方をし、説明をすればいいのかも知れませんが、こんな対応では具合の悪い人はもっと具合が悪くなってしまいそうです。
過剰かも知れませんが、優しい女医さんに看てもらった患者さんは、診察を受けただけで気持ちが楽になり、病状も改善するのではないかと感じじます。
この対照的な2人の医師を見て、医師のコミュニケーションについて考えさせられ、さらには、私の仕事である牧師のコミュニケーションについても考えさせられました。
実力があり、実績があり、評価されている牧師は、大柄で、威張り、高慢になる傾向がありますが、本当の大物はそうではありません。
この人が本当にそれだけ大きな働きをしている牧師なのか!?と目と耳を疑うほど謙遜で、丁寧で、愛に溢れています。だからこそ、大きな働きを神様が任せておられるのだと思います。
『人の振り見て我が身を直せ!』と言われますが、今日はとても考えさせられました。
今日の2人の医師はとても対照的でしたが、通常はそこまで極端でなくても、多くの場合、相手によって対応が変わるのではないかと思います。
『こいつ大した人物じゃないな!?』と思うと見下し、ぞんざいに扱い。偉い人、お金持ちな人、権力者などが来たら、そういう人に限ってペコペコして、ゴマをする姿を何度も見たことがあります。
教会でも、お金のない貧しい人、ホームレスな人、変わった人などが来たら、ぞんざいに扱い。偉い人、お金持ちな人、権力者などが来たら、いきなり手のひらを返したように、『ようこそお越しくださいました!』と丁寧に歓迎するというようなことが起こり得ます。
聖書は、えこひいきがあってはならないと教えます。
『2:21 私の兄弟たち。あなたがたは私たちの栄光の主イエス・キリストを信じる信仰を持っているのですから、人をえこひいきしてはいけません。
2:2 あなたがたの会堂に、金の指輪をはめ、りっぱな服装をした人が入って来、またみすぼらしい服装をした貧しい人も入って来たとします。
2:3 あなたがたが、りっぱな服装をした人に目を留めて、「あなたは、こちらの良い席におすわりなさい」と言い、貧しい人には、「あなたは、そこで立っていなさい。でなければ、私の足もとにすわりなさい」と言うとすれば、
2:4 あなたがたは、自分たちの間で差別を設け、悪い考え方で人をさばく者になったのではありませんか。
2:5 よく聞きなさい。愛する兄弟たち。神は、この世の貧しい人たちを選んで信仰に富む者とし、神を愛する者に約束されている御国を相続する者とされたではありませんか。
2:6 それなのに、あなたがたは貧しい人を軽蔑したのです。あなたがたをしいたげるのは富んだ人たちではありませんか。また、あなたがたを裁判所に引いて行くのも彼らではありませんか。
2:7 あなたがたがその名で呼ばれている尊い御名をけがすのも彼らではありませんか。
2:8 もし、ほんとうにあなたがたが、聖書に従って、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という最高の律法を守るなら、あなたがたの行いはりっぱです。
2:9 しかし、もし人をえこひいきするなら、あなたがたは罪を犯しており、律法によって違反者として責められます。
2:10 律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。
2:11 なぜなら、「姦淫してはならない」と言われた方は、「殺してはならない」とも言われたからです。そこで、姦淫しなくても人殺しをすれば、あなたは律法の違反者となったのです。
2:12 自由の律法によってさばかれる者らしく語り、またそのように行いなさい。
2:13 あわれみを示したことのない者に対するさばきは、あわれみのないさばきです。あわれみは、さばきに向かって勝ち誇るのです。
2:14 私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。
2:15 もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、
2:16 あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。
2:17 それと同じように、信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです。
2:18 さらに、こう言う人もあるでしょう。「あなたは信仰を持っているが、私は行いを持っています。行いのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行いによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。」
2:19 あなたは、神はおひとりだと信じています。りっぱなことです。ですが、悪霊どももそう信じて、身震いしています。
2:20 ああ愚かな人よ。あなたは行いのない信仰がむなしいことを知りたいと思いますか。
2:21 私たちの父アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげたとき、行いによって義と認められたではありませんか。
2:22 あなたの見ているとおり、彼の信仰は彼の行いとともに働いたのであり、信仰は行いによって全うされ、
2:23 そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。
2:24 人は行いによって義と認められるのであって、信仰だけによるのではないことがわかるでしょう。
2:25 同様に、遊女ラハブも、使者たちを招き入れ、別の道から送り出したため、その行いによって義と認められたではありませんか。
2:26 たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです。』(ヤコブ書2章1節〜26節)
医者も牧師も人間です。しかし、どちらも人をいやし、弱い人に寄り添う仕事です。愛、謙遜さ、丁寧さ、偏りみないで、優しいコミュニケーションを大切にしていきたいものです。
それは、良く見られたいからテクニックとして行うのではなく、相手の人格を愛し、尊敬し、大切にする気持ちで接した結果として、優しいコミュニケーションを行うことができたら最高だと思います。
私たち一人ひとりがこのような心で人間関係を築いていったら、温かい家庭、温かい地域、温かい職場、温かい教会となり、温かい国となっていくのではないかと思います。
『悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。・・・お互いに親切にし、心の優しい人となり・・・なさい。』(エペソ4:29、32)
今日も一日お疲れ様でした。また明日お会いしましょう。
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