http://9001.teacup.com/sfk/bbs/16122 (写真入り記事)
一般に、プロテスタントのキリスト教会には、「牧師」と「伝道者」という2種類の教職があります。
「牧師」は、1つの教会に専任で働き、毎週同じ会衆に向かって違う説教をします。
「伝道者」は、いくつもの教会を巡回して、その都度、新しい会衆に向かって自分のベスト説教をします。
「牧師」と「伝道者」も、それぞれに違った難しさがあります。
毎週同じ会衆に向かって説教をする牧師は、いろいろな工夫をしますが、飽きないで聞いてもらうために並々ならぬ努力をしています。
毎回新しい会衆に向かって説教する伝道者は、5本くらいのベスト説教を持っていれば、その場所に合わせて伝家の宝刀の説教を語れば、毎週同じ牧師の説教を聞いている会衆の目と耳にはとても新鮮ですし、『秋の特別集会に「○○ ○○牧師」来たる!』と大きな期待を一身に背負っていますので、期待外れは許されません。
これを野球に例えるのは不謹慎かも知れませんが、バッターがヒットやホームランを打つためには、その日の体調やコンディション、気候、チームの雰囲気、どんなピッチャーと相対するかによっても大きく変わってきますので、どんな状況の中にあっても打てるように練習や心の備えが必要です。
「牧師」や「伝道者」が、絶好調であったとしても、話を聞く会衆は一週間の生活や仕事で疲れきっているかも知れません。夫婦喧嘩をして心が閉ざされているかも知れません。もちろん、その反対もあり得ます。
だから、説教の準備だけではなく、集中して祈り備える必要があります。
「伝道者」として、多くの教会を巡回して説教する人は、毎回ホームランが期待されます。体や精神が病んでいる人、多くの問題を抱えている人、はじめて教会に来る人ばかりだとしても、主の力によってさよなら満塁ホームランを打てたとしたら、「また来年も来てください!」となります。
「牧師」として、毎週同じ会衆に説教をする人は、毎週ホームランを打つことは至難の技ですが、少なくても、バントでもヒットを出す必要があります。
牧師になって14年、伝道師になって18年。説教は、どんなに少なくても週2回は語ってきました。その多くは、肉体的にも、精神的にも、霊的にもコンディションがベストな状態ではありませんでした。10回に1回くらいは、最悪な状態で講壇に立つこともありました。
もう、自分の実力で何とかなる世界ではありません。
ただ神の前にひれ伏し、「神様、助けて下さい」と祈る以外に道はありません。最後は、全面降伏して、神に委ねきって講壇に向かいます。
使徒パウロは、『私が弱いときにこそ、私は強いからです。』(第二コリント12章10節)と語りましたが、私のコンディションが悪い時ほど、この言葉を強く実感させられて来ました。
野球の投手に限らず、普通は、自分を最高の状態で仕事ができるように高め、整えていくと思います。
しかし、「牧師」や「伝道者」の仕事は、自分を高めるのではなく、自分が低くなって、神に頼りきっていく時に、神によって高められ、神によって用いられ、大きな働きをさせて頂けけるのです。
『だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。』(ルカの福音書18章14節)
『ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。』(第一ペテロ5章6節)
ところで、私が通っていた高校では、『継続は力なり』という標語をいつも聞かされました。
その言葉が腑に落ちたので、素直に私の心の深い部分に入りました。それ以来、とにかくやると決めたこと、やりはじめたことを継続するということを大切にしてきました。
もちろん、やっていることが間違っていたり、的外れであったり、「他のことをした方がよい」と気づいたならばその限りではありませんが、それを続けられない状況になった以外は、基本的に継続する姿勢を貫いています。
聖書は、まず継続を教えるのではなく、自分を知り、神を知り、救いを受けて、その後に、自分の召命(使命)と賜物(才能)を知った上で、何をやるべきかがわかります。
聖書が教えるのは、その上での継続です。
私は、メインの仕事以外の仕事を依頼されたり、キリスト教会の超教派活動や地域などのボランティア活動をする場合でも、必ず祈って、神の御心を求めます。
一度始めた以上は、最低でも一段落するまでは継続しますので、自分の召命や賜物がないことに手を出すことは、それ以外のもっと重要な仕事の時間を削ることになり、人生の浪費になりますので、そこは慎重になります。
牧師の働き以外で、ずっと継続しているのがインターネットを使っての伝道活動とコミュニケーションです。
年々、私の仕事の量は多くなり、責任は重くなっています。もちろん、その分、人に仕事を任せるようになっていますので、何とかやれていますが、その合間の時間を使って文章を書き、写真を用意して、ネット上に投稿する労力は小さなものではありません。
しかし、つらくなったり、疲れて体力の限界を感じたりして、継続できないように思ったことも何度かありますが、その都度神に祈り、継続して来られて良かったなーと思います。
おかげで、文章を書いたり、ネットで作業することに慣れて来ましたので、昔とは比べ物にならないくらいの短い時間で準備をすることができるようになりました。
さらに、雑誌や新聞その他の機関から、執筆を依頼されることが多くありますが、毎日やっていることと同じようにすることで、執筆にかかる時間も大幅に短縮されました。
さらに、時間の使い方がうまくなりました。5分や10分という細切れ時間を有効に使うようになりました。
教会に人が来られる時間がわかっている場合は、ドアをノックする音が聞こえるまで、仕事の一部を行います。
難しいのは、出かけて行く直前の細切れ時間です。ギリギリまで仕事をしてしまうと、約束時間に遅れてしまうからです。
重要なことには惜しみなく時間を使いますが、何もしない時間を持たないようにしています。
インターネットの働きを継続したことで、忙しくなりますので、時間のやりくりをしなければいけなくなりますので、優先順位に従って生くざるを得ないので、時間の使い方がうまくなりました。
継続したことで、計り知れないほどの祝福を味わっています。
牧師の働きも、できるならば一生涯継続させてもらいたいと思います。
ある人は、「牧師が一つの教会で長く仕事をし過ぎると教会員が迷惑する」と言います。
理由は、その牧師の色が強くなってしまうので、神(キリスト)の教会というよりも、牧師のオーナー教会のようになってしまって、いろいろな弊害が出て来たり、なかなか後任の牧師が決まらないという問題が起こる場合もあります。
これは、ケース・バイ・ケースだと思いますが、プロテスタント宣教150周年大会で登壇した100歳の牧師は、元気そのもので、現役の牧師ですが、その先生の説教を聞きたくて毎週集まって来られる信徒さんがいらっしゃいますので、素晴らしいことだと思いますが、滑舌が悪くなったり、声が小さくなったり、ボケてしまって何を言いたいのかわからなくなってしまうなどなったとしたら、私なら引退を考えると思います。
「継続する」ことと、「自分の引き際を心得ていること」のバランスも大切です。
話が横道にそれてしまいましたが、「継続は力なり!」と言われるように、やりはじめたことを継続していきたいものです。
ただ、何でもやって、何でもやりはじめたならば継続するというのではなく、引き際も大切ですし、神様との関係の中で、「これはやめた方がいい!」と感じるなら、パッと手放し、やめる勇気も大切です。
だから、まず神様と相談してから、何事もはじめていくことが大切なのではないかと思います。
そして、はじめたならば、継続していきましょう。
すでにそうされているみなさんばかりだと思いますので、確認のようなお話だったと思いますが、これからも、交流、交わりにおいても継続していきましょう。
これからもよろしくお願いします。
明日もまたお会いしましょう。
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