http://9001.teacup.com/sfk/bbs/16021 (写真入り記事)
牧師の土曜日は、教会の日曜日の礼拝のために、教会堂と心を掃除し、整え、準備して備えるのが一般的です。
しかし、土曜日は何かしらのイベントや仕事、ボランティアなどが入ってきます。
午前中は、今週残った仕事を片付けました。
お昼から、賛美の集会に参加し、出演し、楽しい時を過ごしました。
賛美は音楽ですが、その音楽一つとってもいろいろなジャンルがあります。同じジャンルであっても、演奏者、指揮者、歌い手の表現方法によって大きく変わってきます。
とにかく楽しい時でした。
今日の集会に参加するたえに、移動の時間やリハーサルの時間をなどの準備の時間を入れると6時間以上の時間を使いました。
クリスチャンに成たての頃は、心が燃えて燃えて、集会があると聞くと、仕事を後回しにして出かけて行きました。
今はそうはいかなくなりました。神様や人間関係を除いて何が一番大切かといえば、時間だと思います。
時間は貴重な宝です。
時間にゆとりがなければまず集会に参加することがなくなりました。
しかし、昨晩の祈祷会のように、強く誘われると、「行かなければいけないかなー?」と考えて参加します。また、今日のように、責任があったり、プログラムに名前が入っていて、自分が出演することになっていると、参加することになります。
最初は、背負わされた十字架のように感じる面もありますが、振り返ってみると、参加できて良かったなーと感じます。
みなさん、負わされた十字架には、実は、祝福があります。
クレネ人人シモンという人は、イエス様の十字架を無理やり背負わされました。そこに大きな祝福がありました。
「そして、彼らが出て行くと、シモンというクレネ人を見つけたので、彼らは、この人にイエスの十字架を、むりやりに背負わせた。」(マタイ27:32)
「そこへ、アレキサンデルとルポスとの父で、シモンというクレネ人が、いなかから出て来て通りかかったので、彼らはイエスの十字架を、むりやりに彼に背負わせた。」(マルコ15:21)
「彼らは、イエスを引いて行く途中、いなかから出て来たシモンというクレネ人をつかまえ、この人に十字架を負わせてイエスのうしろから運ばせた。」(ルカ23:26)
十字架という言葉は、苦しみや試練を負わされる時に比喩的に使われることがあります。
十字架は、苦しむ場所でもありますが、当時のローマの極刑に使われる処刑道具でした。
十字架を背負うとは、死ぬことを意味します。
人から無理やり負わされた十字架のようなできごと、不運としか思えないような環境を通して負わされた十字架もあります。
しかし、私たち自身や私たち自身に与えられた環境も十字架といっても言い過ぎではありません。
自分に与えられた環境、今この時、この私から逃げたり、ごまかしたりしないで、そこにとどまり、そのただ中から神に呼ばわり、神に来て頂くことで、そこを神と一緒に乗り越えていくことができます。
十字架ですから、イエス様と一緒に、そこで自分に死ぬ経験をしますが、死んだ後に、イエス様と一緒に復活します。
私は、キリストと共に死に、キリストと共に復活する体験を毎日持つ必要があると思います。
その体験をした人を筋金入りと言ってもいいのではないかと思います。
その人は、死んでいるので強いです。しかし、キリストの愛を受けているので優しいです。
参加した集会を背負わされた十字架と表現してはいけませんが、それが伝えたいのではありません。
私たちに与えられた環境は、すべて十字架です。そこにイエス様と共に死に、復活する経験を毎日させて頂きたいものです。
それは、死を打ち破る復活を経験することですから、不可能の壁を打ち破ることになります。
ブレイクスルーを経験することになります。
今日も、そんな素晴らしい奇跡を経験されたでしょうか?
明日は日曜日です。どうぞ、日曜日は教会へ。
はじめての方も、日曜日は教会にいらっしゃいませんか?
一週間お疲れ様でした。
良い週末をお過ごし下さい。
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