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2015年08月14日00:21

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「一日一シャ〈謝と謝と赦と写〉【129】 2015/8/13(木) 人生は一歩一歩」

http://9001.teacup.com/sfk/bbs/15948 (写真入り記事)

今日は、ゆっくり過ごそうと思っていたら、やらなければいけない仕事がたくさんあったことに気づいて、いきなりトップギヤーに入れ直しました。

明日は、友人と半日一緒に過ごすことになっているので、逆算して今日終わらせなければいけない仕事に取り組みました。

夕方には、今日中に役所に提出しなければならない書類があることに気づいて大慌てでしたが、何とかぎりぎりセーフでした。

昨日の、渋谷区と世田谷区の20教会をゲリラ訪問では、私が教会の下調べをしましたが、リーダーの先生が別にいましたので、どの教会を回るかはお任せしました。

私ならば、25教会くらいを目標とし、最初から行く順番を決めて、次々にナビゲーションに電話番号や住所を入力してしまいますが、リーダーの先生は、一つ一つ、次に行く教会だけを決めました。

私が選んだ100教会近いデータの中から、現在地から一番近い教会を選び、iPhoneの中に入った住所をクリックすると、距離がと所要時間が出ますので、iPhoneのナビと車のナビを照らし合わせながら、「このルートは車のナビの方がいいですね。ここはiPhoneの方が近道を教えてくれているので、ここを曲がりましょう!」など、ひと時に一つずつを選んで進みました。

新鮮でした。

今日は、その方法に従って、一日のはじめにある程度やることを紙に書き出しましたが、その時点で予定をすべて立てるのではなく、最初にやることだけを考え、終わったら次をやり、さらに終わったら次をやるという方法で、気がついたら休む暇なく仕事をし、役所が閉まる夕方5時15分の5分前に滑り込みセーフでした。

忙しかったのに、気持ち的にはゆったりした一日でした。

その足で御茶ノ水に向かいました。車を駐車場に駐めると、つけ麺を食べにいきました。フランクリン・グラハム大会の事務所に立ち寄り、祈祷会がはじまるまでの30分間、若者の集会に参加しました。

夜7時からは祈祷会がはじまりました。今日は、社会全体がお休みということもあり、参加者がいつもより2割くらい少ないですが、かえっていつも来れない珍しい参加者も来られました。

祈祷会が終わった後は、食事会をしました。今日は少し困った女性の方が参加されました。お金を持っていないのに、高いものを注文し、さらに、出された鳥肉にケチをつけて、「焦げ目がついているもう一度焼き直せ!」と、ものすごい剣幕でいちゃもんをつけました。

毎週、親切にしてくれているお店なのに、店員さんを困らせるし、お金を持ってないのに高いものを注文しました。

私は、「あなたが文句を言うのは自由ですが、自分が食べたものは自分で支払って下さいね!」と言いますと、手のひらを変えたように弱気な態度に変わりました。「私が店員さんに文句を言ったからいけないんですね。文句は取り消しますので、今日だけはお金ないのでご馳走してくれませんか!?」と、態度を変えて来ました。

世の中には、クリスチャンを普通とは違う人と見ることがあります。

お店の人たちは、私たちがクリスチャンの団体だということを知っていますし、とてもよくしてくれています。できるだけ寛容でいたいと思いますが、常識外れな対応はしてほしくないなーと思いました。

「敬虔な仏教徒」「敬虔な神道信者」「敬虔な学会員」などという言葉はないのに、なぜか、クリスチャンだけは、「敬虔なキリスト教徒」と表現されることがあります。

クリスチャンに対して、一目置いて下さることはありがたいですが、その人がクリスチャンになりたいと思った時には、それが障害になることがあります。

「私は汚れているので、とてもクリスチャンにはなれません!」

クリスチャンとは、「赦された罪人」に過ぎません。敬虔なクリスチャンもたくさんいますが、問題を持った人もたくさんいます。

キリスト教という宗教に入ったから人格が変わるのではありません。神と出会い、神の愛を受けて、神と親しく交わるうちに、徐々に人格が新しく変えられていくのです。

期待が外れで、「あなたそれでもクリスチャン?」と真顔で言う人がいます。

開き直ってはいけないと思いますが、「あなたそれでもクリスチャン?」と言われたら、「そうなんです。だからクリスチャンなんです」と答えたらいいと思います。

仮に、とんでもないクリスチャンがいたとします。その人がクリスチャンじゃなかったら、もっともっととんでもない人だったと思います。それでも、神の愛に触れて、少しは謙遜になったのではないかと思います。

みなさん、とんでもないクリスチャンの人を見かけたら、その人のとんでもない部分を見るのではなく、そんなとんでもない奴を受け入れ、とんでもない奴を救われる神の偉大さを見て下さい。

そういう神様だからこそ、あなたのすべてを赦し、受け入れ、救って下さるのです。

一人の人が教会に来られました。初回に来られた時に、1:1で聖書勉強をしました。

「イエスさまを信じたいです!」と言われました。

しかし、そこでストップしています。

「先生、洗礼はまだ受けられません! クリスチャンになる自信がないのです!」と言われました。

人が救われるためには、ただイエスさまを信じること以外にありません。

洗礼は、イエスさまを信じた人が受ける、一つの通過儀礼に過ぎません。

しかし、洗礼を受けるということに、必要以上に重きを置いて、一歩踏み出せない人がいます。

「洗礼を受けたら、聖書に書かれていることをすべて実行しなければいけない!」とあらかじめ考えたら、自信がなくなくなるに決まっています。

自信なんてなくていいのです。むしろ、自信がある方が恐いです。

自分の力で立派に生きていけるなら、イエスさまの救いは必要ありません。

自分で自分を救うことができないから、「神様、助けて下さい!」と神様に頼ればいいのです。

話は戻りますが、私の一日のスタートは、今日やらなければいけないことを紙に書き出して、優先順位を付けてから一日の仕事をスタートします。

しかし、昨日、一緒に教会のゲリラ訪問をした先生は、それとは少し違う方法でスタートしました。私が紙に書き出した予定表は使いますが、あらかじめ一日の青写真は描かず、一つ終わったら次、一つ終わったら次と、ひと時に一つずつ予定を立てながら訪問しました。

クリスチャン生活は、後者のように歩んだらいいのです。

まず最初に、

�.ぅ┘后Ε�リストが、私の罪のために十字架で死なれ
�∋爐鵑生紊吠茲冒鬚蕕�
��三日後に死人の中から復活された

この3つを信じ、受け入れることです。これが人が救われるための条件であり、すべてです。

そして、信じた人は、次に洗礼を受けます。

洗礼を受けたクリスチャンは、その都度、神様に導かれて、一歩一歩歩みを進めていくのです。そのようにして、人は少しづつ成長していきます。

最初からすべてを考えて、すべてのことをやらなければいけないと考えたとしたら、誰もクリスチャンになれません。

クリスチャンの歩みは、一歩一歩だということを忘れないで下さい。

「這えば立て立てば歩めの親心」という言葉がありますが、生まれた赤ちゃんは、まずは寝返りをし、首が座り、徐々に四つん這いになって這って歩くようになります。そして、次第に二本足で立ち、歩くようになっていきます。

神様は、人がイエスさまのように成長することを願っておられますが、「這えば立て立てば歩めの親心」と言われるように、まずは、イエスさまを救い主と信じてクリスチャンになるところ、つまり赤ちゃんの状態からスタートし、そこから一歩一歩、少しづつ成長していくことを願っておられます。

神様は、人を急かしたり、一つ一つのプロセスをバイパスさせようとはしません。むしろ、私たちの方が急ぎすぎているのではないでしょうか。

人は、神と共に歩むならば、必ず成長し、必ずイエスさまの姿に変えられていきます。

そして、変えられた分だけ幸せになることができ、変えられた分だけ祝福がまし加わっていくのです。

先ほどお話した困った女性のように、教会には、時々、変わった人が来ます。また、教派を超えた集会などでも、必ず変わった人が来ます。

そんな時、ありのままを受け入れることは大切ですが、同時に、人に迷惑をかけたり、他の人に不快な思いを与える場合は、最小限指導をする必要もあります。

赤ちゃんが電車の中で騒いでいたら、人に迷惑がかかるので、最小限注意するのと同じです。

時々、注意しないで、見て見ぬふりをした方が楽だなーと感じることもありますが、それでは、牧師である意味がありません。

できるだけこっそりと、1:1で話します。それで、悔い改める人もいます。そうしたら、その人との関係が深まります。

「また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。」(マタイの福音書18:15〜17)

しかし、中には、逆ギレして逆恨みをしたり、まったく耳を貸してくれない人もいます。

ただ大切なことがあります。

人に指導をする時には、毛嫌いしたり、許せないからするのではありません。そういう動機だとその人に伝わりますし、ますます頑なになります。

その人を愛し、その人のことを真剣に考えながら指導することが大切です。

牧師はリーダですが、本当はすべての人がリーダーなのです。

学生もやがて先輩になるし、職場でもやがて上司になるし、結婚をして子供を産んだら親になります。それもリーダーです。

リーダーは、そのような嫌われるような役回りを引き受けなければなりません。

もし、リーダーが、嫌われたくないのでいい顔をだけをしたり、反対に、その人を愛して、その人を真剣に考えないで毛嫌いしながら指導するなら、その人は、牧師やリーダー失格だと思います。

厳しい言い方をするならば、辞めた方がいいと思います。

今日の困った女性は、「ごめんなさい!」といってくれました。口先だけかもしれませんが、言って良かったと思います。

毎日、いろいろな人と出会いますし、素晴らしい経験をさせてもらいます。良い一日でした。

みなさんお疲れ様でした。また明日お会いしましょう。

おやすみなさい。
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