http://9001.teacup.com/sfk/bbs/15784 (写真入り記事)
今日は日曜日ですので、教会の門を大きく開き、いろいろな方々が来られて、共に礼拝を捧げました。
朝の礼拝開始少し前に、見慣れない方が入って来られました。弱視の方で、前のパワーポイントで映写された賛美歌の歌詞が見えないようで、虫眼鏡で歌詞カードを見ながら歌っておられました。
この方は、大型の教会で救われ、その教会に通い続けていたそうですが、疲れ切ってしまわれたそうです。理由は聞かなくても想像できます。
一昨日と昨日と、「繁栄の神学」という言葉を使いました。以前は、この言葉が嫌いでした。この言葉で、私の恩師の実名をあげて非難するブログ記事を目にしたことがあるからです。恩師が非難されると、自分も非難されているように感じて、嫌な気持ちになりました。
聖書は、「弟子がその師のようであり、僕がその主人のようであれば、それで十分である。」(マタイの福音書10:25)と書かれています。
マンツーマンでメンタリングやコーチングを受けたわけではありませんが、授業で語られる言葉をノートに書きとめ、復習し、実践し、自分のものにしていきます。
「守破離」という言葉があります。
それは、弟子が独り立ちしていくプロセスです。
まず「守」は、師匠から教えられた通りをそのまま受け入れ、その型を「守る」ことからはじまります。
次に「破」は、その型を自分なりに研究し、自分に合った形に作り直して、師匠の型を「破」っていくプロセスです。
最後の「離」は、師匠から学んだ型、自分が作り出した新しい型を土台としつつも、それらの技や技術を体得し、よく理解しているので、型から離れて、自由自在に操れるようになる段階です。
私は、伝道師になって19年、牧師になって14年が経ちますが、ある意味、「離」の段階になっていますが、同時に、「守破離」のプロセスを繰り返しています。
私の本当の師匠はイエスさまです。いつもその教えに立ち返ります。
しかし、私に教えて下さった恩師一人一人に心から感謝をしています。「守破離」というプロセスを経て、少しづつ自分なりの型が作られたからです。いきなり、「破」や「離」に行き着くことはできないからです。
今朝教会に来られた方は、おそらく繁栄の神学の影響の中で、弱者として扱われ、肩身の狭い思いをして来られたのではないかと感じます。
繁栄の神学は、数が多く、規模が大きいことが称えられるからです。その価値観の中では、比較して少なく、小さいと評価される人は肩身が狭いものです。
牧師同士が初対面の時に質問し合うことがあります。
1、 教会員の人数(もしくは、礼拝の出席者)は何名ですか?
2、 教会の敷地や教会堂の大きさはどれくらいですか?
3、 教会の年間の予算はいくらくらいですか?
これが悪い質問なのではありません。その質問から次の話題に発展していくものです。
しかし、教会の人数が多く、教会の敷地や建物が大きく、教会の予算が多い牧師がより優れているという考え方を持つとしたら、繁栄の神学に毒されています。
こういう価値観は、世の中にある競争原理の中にもありますので、何も疑問を持つことなく浸透してしまうことがあり得ます。
聖書は、数や大きさを比較して、優劣を付け合うことを教えていません。
「みんな違う。みんな素晴らしい」というのが聖書の価値観です。
SMAPが歌った「世界に一つだけの花」(作詞・作曲・編曲/槇原敬之)を紅白歌合戦で聞いた時、聖書の価値観に似ているなーと思いました。
花屋の店先に並んだ いろんな花をみていた
ひとそれぞれ好みはあるけど どれもみんなきれいだね
この中で誰が一番だなんて 争う事もしないで
バケツの中誇らしげに しゃんと胸を張っている
それなのに僕ら人間は どうしてこうも比べたがる?
一人一人違うのにその中で 一番になりたがる?
そうさ 僕らは 世界に一つだけの花 一人一人違う種を持つ
その花を咲かせることだけに 一生懸命になればいい
聖書は、人が互いに比較し合い、劣等感や妬み、優越感や見下すことから解放され、自由にならせる力を持っています。
「真理はあなたたちを自由にする。」 (ヨハネによる福音書 8章32節)
一人の傷ついた方との出会いを通して、福音に、世の中の価値観を混ぜ合わせて教えるのではなく、福音をまっすぐに語ることの大切さを考えさせられました。
「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」(ヨハネの福音書13:34〜35)
「いやぁ、映画って本当にいいもんですね〜」(水野晴郎)
「いやぁ、教会って本当にいいもんですね〜」(菅野直基)
教会の礼拝が一週間に一度というのは、とてもいいリズムだと思います。これより少なかったら、世の中にある競争原理や神なき価値観に押しつぶされてしまいます。熱心な人は、毎日教会に来て祈るのもいいですが、教会生活は一生続けていくものです。
毎週神を礼拝し、聖書を学び、間合いを開けてそれを実践し、また教会に集います。それを繰り返すことで、自分のものになっていきます。
教会に通い、クリスチャンになったからといって、人がすぐに変われるものではありません。人は一生という時間をかけて、時には一気に変えられますが、少しづつ、キリストの姿に変えられ続けていくのです。
「私達はみな顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられて行く。これは霊なる主の働きによるのである。」(2コリント3:17〜18)
今日一日、聖書の福音を語ることができ、神を礼拝できたことを感謝します。
一週間を生きていく力が与えられました。
ゆっくり休んで、新しい一週間に備えて参りましょう。
おやすみなさい。また明日お会いしましょう!
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