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2014年12月24日16:40

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クリスマスとシステムと私

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クリスマスとシステムと私

あなたと私は、私たちが世界の問題の責任を問うシステムそのものを構成しています。私たちがクリスマスにイエスの名のもとショッピング街で弱った地球から奪い取る時、それはあからさまに実証されます。今年、キリストの誕生を祝うために自由と正義の旗のもとで結束し、世界中の飢餓と貧困をなくすために平和的デモンストレーションをするより良い方法が他にあるでしょうか ー モハメッド・メスバヒは記す。


政治家に失望し、社会の問題に苦悩し、そこには何か腐り切ったシステムがある印象を受けます。ためらうことなしに、私たちはシステムを批判し責めます。しかしながら真実は、「システム」などというものは存在しないのですが、過ぎ去って行く日々の中で世界情勢を変えるために殆ど何もしない私たちの偏狭で自己没頭的生き方の中のあなたと私だけが存在するのです。世界を見て、「なんと腐ったシステムなのか。」と言った途端に現実を見逃し、私たち自身と人類の問題の間に分裂をつくるのです。実際システムが自分たち皆の共同制作の結果であるにも関わらず、自分たちとはいかにも違った存在としてシステムを名指しし、人類からそれ自身を切り離すマインドの驚異を観察するのはなんと奇妙なことでしょう。

テレビで口論している政治家を観察していると、例えば、自分たちの選んだ政党がもしまたしても約束を破ったなら、私たちは投票選択を変える傾向にあります。恐らく私たちは45年間労働党へ投票して来ましたが、彼らが税金を上げる恐れがある今、自分たちの私利的懸念により沿った政策を制定する誓いを立てる保守党を支持することに決めます。私たちは、活動家となり世界中へ真の変革をもたらすために他と結びつく代わりに、政治家が親であり私たちは彼らに頼る子供であるかのように振る舞い、 主に自己のみのことを考え、社会を改善する全ての責任を政府へ任せています。その間に政府は、権力を保ち各投票者の先入観へつけ込むために、それが理解することのない破壊的市場勢力を使ってごまかし操作することにより、複雑な計画と利益をもたらす投資を魔法のように出してみせるのです。私たちが家のローンを心配し、私的幸せのための個人的聖戦へ挑んでいる間、未来世代の将来的展望と同様に、社会と環境への破壊的影響の原因である商業化勢力を放つための許可証を、私たちは無知な政治家に与えているのです。そして更にこの地球の創造性、正義、自由、人間の進化の自然の流れを妨げることに自分達が一役買っている事実を認識することなく、その結果としての社会的、経済的混乱の全てをシステムのせいにするのです。

私たちが好んでシステムと呼ぶ日常生活の単調でつまらない仕事と分裂を創造することに自ら請け負った役割を、私たちはなぜ内部の認識を通して理解できないのでしょうか。私たちは何度資本主義を責めるのでしょうか。特に、それがマインドの中に分裂を生むこと、そしてその分裂自体が「主義」の本質そのものである事実を悟ることなしに。自分たちの権威を政治家へ放棄し、自己の行動の欠如と無気力にも関わらず、 全てがうまく行かずシステムを責める時、投票の行為は主義の直接的表現となります。もし私たちが常に主義と、相反するイデオロギーに基づきお互いの間に分裂をつくっているとしたら、あなたと私は社会がどう統治され構造化されるべきか政治について話し合うことにより時間を無駄にしているのです。恐怖、自己本位、そして無関心を隠す口実として私たちが執着する政治的主義はもとより、全ての形における主義をつくり代表しているのは自分たちです。あなたは労働党;私は保守党。私の政党はあなたの政党と同意しません;私たちはイデオロギーのために戦争をします。両者の状態は同じレベルの思考から起こります。そして私たちの周りの世界が徐々に死んで行っているこの時でさえ、私たちが皆でつくりあげた心理的分裂に苦しむのは私たち人なのです。そして私たち共同の責任から逃れることはできないのです。自給自足のコミュニティーへ引きこもり、それにより自己を心理的同様物質的に社会から切り離すことによってでさえ逃れられないのです。人類が死んで行っている限り、私たちがこの地球での生き方を完全に変えるまでは、いずれにせよ私たちも死んで行くのです。

資本主義の捉えどころのなさ

資本主義が人々と地球に対し何をしているのか、そして社会運営の仕方がどのようにしてそれほど緩みコントロールがきかなくなったのかをもし心理的観点から考察し理解するなら、いくつかの基本的要因があげられます:無関心、欲、盲目、そして何よりも集団的傲慢です。従って、もし資本主義が腐っているなら、私たちも全員腐っているのです。なぜなら、先祖代々通してこのよこしまなシステムをつくり維持して来た人間の振る舞いを私たちは代表するからです。誠に、私たちが資本主義と呼ぶ純粋な意味でのそれはもはや存在しません;今日私たちが目にする全ては、孤児と化した分かち合いの原理の最もあからさまな対極に今立つ、未亡人となり堕落した原理の乱用です。政治的、経済的意味での分かち合いは余りに徹底して無意味なものと成らしめられたため、それは現存する政府の最高レベルの間で殆ど理解されないと同時に、かつて大学で教えられたような資本主義の古い考え方はここ何十年かの間で失われ、実にひどい人間の振る舞いによって完全に置き換えられました。

従って、人類の問題をシステムのせいにすることは私たちの真剣さ、成熟さ、そして認識の欠如を象徴するのみです。社会とシステムに対する厳しい批判によって自分たちをお互いから切り離す中で、その心理的分裂が遂には残りの人類に対する無関心としてそれ自体を象ります。私たちが働き、眠り、そして生計を立てるためにあがくと同時に、習慣的日常活動の空虚さに関係なく、私たちが「私の人生」と「私の権利」と呼ぶ自分たちの小さな箱の中の楽な存在を続けて行くのをむしろ好むのです。私たちは一番に、そして真っ先に自分達のことを考え、どんなことよりも私たちの休暇、私たちの年金、私たちの楽しみ、そして私たちの家の改善を優先します;「私は煩わされたくありません。」が、私たちの頭の天辺へつけて歩くべき張り紙です。勿論、快い物に囲まれ不自由なく謙虚に暮らすことに何も間違った所はありません。しかし、裕福者がこの世界で真に快適に生活するためには、他の人も皆必要とする物を持っていることが彼には確かでなければなりません。そうでなければ、彼の快適さはボディガードと防護フェンスの費用分かかることになるでしょう。貧困者でさえ、常に意気消沈し無気力であり続ける中、分割された世界の不正を受けいれるよう大変強く条件付けされており、よって団結しシステムの不平等さへ挑戦しようと思いません。私たちの無関心は余りに長い間恐怖と、自己知識の欠如によって感情的レベルに保たれて来たためそれは殆ど遺伝的です。人間としてのより崇高な目的と創造的可能性に対して最後には私たちが霊的に死んでしまうまで、そしてお互いの間の心理的分裂自体が人類の進化をこのように時間のかかる痛々しいものにしたのです。

この展望からシステムと呼ばれるものは、異なった国々の人同士の関係と同様、社会の中のお互いの間の人間関係への誤った姿勢であると簡略に定義付けできす。社会が私自身の延長であり、国内、国際両方の顕現に於いてのシステムであるという心理的事実をもし理解するなら、貧困と不正と政治的腐敗に直面した時、「それはこれまで常に存在してきたから。」などと言うことはもはやないでしょう。一度、人類の問題から誰一人として放免されることはないと認めるなら、私の意識中の原動作用の全てが根本的に変わるでしょう。そして最低限、私は各国で起こっている自由と正義のためのデモンストレーションに参加するでしょう。システムを責めるのみで、世界情勢を変えるために何もしない人々の無関心は事実ペテンの一種です。裕福か貧しいかということは何の違いも持たらしません;個人的快適さと幸せだけを求め、世界を脅かす緊急事態に対しての認識がなく無関心な生き方は、私たち自身と他の人々両方にとって、維持して行くには心理的に危険な在り方です。人間の命に対するそのような態度を持って、市場勢力が暴動と広範囲における破壊を起こしている時、どうして私たちは文句を言えるのでしょうか。商業化が私たちの血流に入り込んだ今、私たちの集団的無関心が余りに蔓延的割合に達したため、世界の大変動とアルマゲドンについて話す熱狂者に耳を傾け始めねばならないかもしれません。誠に、もしこれが人類のベストと呼べるものなら、恐らく万国共通結束への大衆の目覚めへの残された唯一の希望は、世界経済の最終崩壊でしょう。

クリスマスにおける私たちの共犯罪

システムを維持する中でクリスマスのお祝い程、私たちの暗黙の共犯罪の良い例はありません。この時期私たちは、イエスの名のもとショッピング街で弱った不幸な地球から奪い取ることにより消費に消費を重ねます。私たちのうち何人がリサイクルし環境的価値を断言し、そしてその後12月25日がやって来る時、倫理の全てに別れを告げるのでしょうか − 費用がいくらかかろうが祝わねばならないのですから。そして延いてはそのように沢山のお金を高価なプレゼントに使うことは政治的追従行為であり、根本的に自分たちの叡智と自由を拒否する行為であると私たちは認識しません。消費する充分なお金がないとしても、友人や親戚のためのプレゼントを買うためにむしろ借金することを好むのです。なぜなら、私たちはある一定のライフスタイルのイメージを保たねばならないからです。経済と環境の両観点から、何百万という人々と全ての国々の維持不可能な負債にも関わらず。計り知れないストレスと苦しみの現時点において、心理的にお互いから切り離されて生きている悲しい真実を内部でわかっているにも関わらず、それでも私たちは天国で座っている捉えどころのない白い髭のサンタの名のもとまだ祝うのです。「皆で再会する」機会を楽しむ幸せな家族の名のもとに、私たちのひそかにわびしく条件付けされた存在の空虚感を埋めるために、そして全ての不必要なプレゼントで私たちの子供達を惑わすために − どの子供も皆、クリスマス・イヴにはパブロフの犬の条件反射の実験に最適な候補者となるまで。そして、世界に起こっている全てが相まって私たち自身の責任である時、それは地球を破壊する政府と企業とシステムのせいだと言って私たちはお互いを騙し合うのです。

これはクリスマスの祝祭を非難するための、または他の人々のお祝いを批判するためのものではありません。しかしこれは、今日起こっている現実について、偏見のないマインドを通して単純に問うためのものです。それは裁くためでも非難するためでもありません。なぜなら、既に明らかであるように、世界の問題について私たち全員が責められるべきであり、誰もそれから放免されることはないからです。むしろそれは、完全な正直さを持って問うためです:今日知られるところのクリスマスが、愛やイエスとどう関係あるのでしょうか。この問いと向かい合う勇気と誠実さを持って、答えを見つけるために私たち自身の中へ入ってみましょう。「メリークリスマス」「明けましておめでとう」の同じ挨拶を来る年来る年何度も何度も繰り返すことによって「生活は続いてゆく」のだとお互いと自分達自身に装う価値は何でしょうか。毎年私たちの生活が全く同じにとどまる時、これは一体どのような挨拶でしょうか。多くの一般人が自殺に追いやられる程、毎日が恐怖とストレスと不安感で満ちている時に。私たちの殆どが様々な度合いの落ち込み、寂しさ、そしてお互いから心理的に切り離されて生きる密かな痛みを病んでいる時に。そしてとりわけ、日常社会に適応し普通であるよう見せるために、つくられたイメージを通しとても上手に隠している霊的貧困を私たち全員が病んでいる時に − それは大変重いストレスと負担を強いて築かれた何十年という月日の間、そしてしばしば一生の間、保たれねばならない自己のイメージです。

更に深いところまで掘り下げてみましょう。そしてなぜ、クリスマスの時期に笑いと食卓を越えた世界の出来事に対する無関心の中で、お祝いの食事を楽しむかもしれないためだけに、偽のいわゆるクリスマス精神の名のもと何百万という多くの動物を殺し、あのように多くの木を切り倒すのか追求してみましょう。イエスの愛が私たちの家に毎年12月25日にだけ振動するかのごとく、自分たちの不安で空虚な存在の穴を埋めるため、毎年1月1日までに大変多くの地球の資源が破壊され無駄にされて来ました。結局の所この全ての破壊と自己道楽は、真の、または道徳的目的が何もないまま、そしてただの信条のために行われたのです − 悲しくも、私たちの多くが増々認めているように、歪められた教義の迷路の中で数千年間教会が私たちをその信条へ惑わせ導いて来ました。あのように沢山のプレゼントを買うのは愛と親愛の情の表現だと、私たちは自身に言うかもしれませんが、なぜその愛が年月順に決まった日に表現されねばならないのでしょうか。それは本当に愛なのか、それとも叡智の拒否と「信条に対する信条」に基づいた追従と条件付けなのでしょうか。それが後者である場合、クリスマスプレゼントとクリスマスツリー、そしてあのように沢山の食べ物と飲み物の群れをなしての購買は、本質的に愛と自由の欠如した社会的行為であり、必然的に精神的、または霊的不快感によって特徴付けられます − なぜなら、追従はその根を恐怖に持たない限り存在できないからです。それは自動的であり、それ故この地球に対しての暴力についての考えがありません。そしてそれは最終的に私たちの内部の認識と創造力を蝕みます。集団的共犯罪と偽善と無関心から自分達の注意を習慣的にごまかしている間、私たちが嫌うと公言するシステムそのものを永続させる中、それは私たちが来る年来る年繰り返す無意識的嘘なのです。

私たちは皆ペテン師

私たちが皆この現実の一部だということ、そして、現代社会へ参加しているだけでも私た皆がある程度ペテン師だということを憶えておいて下さい。そしてクリスマスを祝うことは犯罪ではないので自分達を責めることなしに、できる限りの謙虚さを持って自己を見てみましょう。自分たちの行為を認識し、私たちが酷く嫌悪するこのシステムそのものを自分達が構成していることと、私ち皆を支配下に置くシステムを自分達が強化しているにも関わらず、この極めて有害な社会秩序の創造に自分達が演じている役割を理解することを拒んでいる事実を自覚するよう試みてみましょう。世界で起こっている全ての相互依存を共に観察してみましょう。そして私たちが違った、真に愛情のこもったクリスマスを祝うことが出来るか考えてみましょう。なぜなら、私たちのお祝いを導いているのはキリストの愛ではなく、むしろ私たちの条件付けと追従をご馳走とし楽しみ、今、私たちの喉にナイフを突きつけている商業化勢力だからです。それが、本当に起こっている真実です。それは、クリスマスセールで躍起になっている買い物客の行列を観察した誰もが証言出来ることです。私たちを常に深まる負債へと押しやる私たちの社会的追従というご馳走を銀行が楽しんでいる間、多国籍企業は私たちの条件付けされた購買衝動をご馳走にし楽しんでいるのです。そして維持不可能な借り貸しの全システムが崩壊する時、溶けゆく経済を生還させようと無謀な銀行に対し救済処置を施すのは政府です。しかし、通常とされる生き方の続行を求めるのは私たちであり、以前と同じ利己的な振る舞いへ素早く戻るのは私たちです。そして、それによって不正なシステムを進んで保つのは私たちなのです。たとえ世界情勢が余りに不安定でもうすぐ裕福者へも貧困者へも救済処置が可能でなくなるかもしれないというのに。そしてそれにも関わらず、12月25日がやって来る時、未だ私たちは祝うのです。そしてそれはキリストや、彼が言ったこととは絶対的に何の関係もないのです。私たちは皆、十字架上でのイエスの言葉をよく知っています:「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」しかし今日まるで人類が黙って無意識的にこう言っているかのようです:「わが神よ、どうして私たちは商業化に私たちの生活を支配させ、それ故あなたの神聖王国を汚し、正しい人間関係についてのあなたの教えを放棄することにより、あなたを見捨てたのでしょうか。」

現実は、12月25日は悲しく悲惨な日なのです。なぜなら私たちがキリストの誕生を祝うと同時に、クリスマスの晩餐などの贅沢どころか、生活必需品さえ剥奪された何百万という男女子供が存在するからです。1月1日新年を迎える時、遠方の国々で私たちの兄弟姉妹が死にかけているそのちょうどその瞬間、私たちはお互いに良い新年が来るよう願うのです − 飢えと栄養失調と病気からのそれらの不必要な死を祝っているかように。それでも、それは常にこうであったと私たちは反論するかもしれませんが、もし自分たちの家族の誰かが死んだとしたら(起こらないことを願いますが)、クリスマスと大晦日を愉快に祝っているでしょうか。ではなぜ私たちは、回避可能な貧困に関係した原因から毎日4万人が死ぬと同時に何もせず、それが当たり前だと思うのでしょうか。このような時に実際私たちが祝っているのは、無関心で鈍感、そして未熟で居続けるための私たち自称の自由なのです。それは、使い古された決まり文句 − 「人生は短いのよ。」「どうせ人生は一度きりだから。」「皆で一緒に楽しまなきゃ。」 − を持って行われます。一度大晦日に試しに、その夜何もしないで家に一人で居てみて下さい。テレビもつけず誰とも連絡を取らないで。そして、外では皆が大いに楽しみ愉快にやっているのを知りながら、大晦日にあなたがどれだけ寂しい思いをするか見てみて下さい。その瞬間、あなたが激しい飢えで苦しんでおり、食べ物を手に入れる展望が全くないと同時に、世界は無邪気に新年を祝い続けていることを想像して下さい:どのように感じますか?

それがどのように劇的に見えようと、集団的、そして世界的規模の私たちの無関心は余りに危険で、それが他の人々を殺すという事実は依然として残ります。私たちの無関心は直接的、または間接的に貧困者を殺すのです。しかしそれは、私たちが残りの人類から分裂した生き方を追い続けると同時に、霊的、そして道徳的意味で自分たちをも徐々に殺すのです。私たちは全員、世界のどこかで貧困から人が死んでいるのを知っていますが、どれだけの人がそのために何かをしているでしょうか。僅かな数です。その場合、私たち自身のクリスマスのお祝いと、多くの人を殺してその後イエスと彼のメッセージを記念してクリスマスに教会へ出席するマフィアの家族との間に全く道徳的違いはないのです。勿論、人生の活発な楽しみは喜びと美の自然な表現ですが、自分の子供が自分の腕の中で栄養失調で死んで行くのを目撃している何百万もの親達の間にどような種類の楽しみがあり得るのでしょうか。私たちがどこに住んでいようと関係ありません。私たちの周りの非常に多くの絶望的で貧しいホームレスの人々の間に、そして臆面もなく無駄にされ、それを真に必要とする人々と分かち合われることのない莫大な量の食べ物と他の資源の間にどのような種類の楽しみがあり得るのでしょうか。それでも、私たちの祝いが終わり、そして毎日の新聞を読み続ける中で、億万長者がスラム街かまたは大変貧しい界隈のど真ん中に巨大な宮殿を建てる記事を私たちが目にする時、嫌悪感を感じるのです。しかし、自分たちが世界的、またはクロス社会的に正に同じ生き方をしているという自覚が私たちにはないのです。私たちは恥ずかしくないのでしょうか。それとも私たちの自己没頭はそれ程文化的に根深いがために、私たちは今完全に無関心になってしまったのでしょうか。

地球規模の無関心

この事についてあなた自身真剣に考えてみて下さい。そして、世界中に飢えから死ぬ貧しい人々がいるのが現在当たり前となっている私たちの無関心、私たちの家族の無関心、そしてどのようにして私たちの国家の無関心がこのように長年続いて来たのか客観的に理解することを試みて下さい。「貧困の中で死んで行くのは彼らの運命であって、それは私には関係ないこと。」と事実上言っているのは地球の無関心です。従って、私たちの政府は何万人という人々が毎日不必要に死んで行くことを止めるために何もしないのです。なぜなら私たちが全員、彼らが何もしないのを許しているからです。ですから私たちはシステムであり、システムもまた私たちです:全てが相互につながっています。一般人が無関心の人生の領域で動いている限り、「私」が正義のために自己の声を上げずにいる限り、その結果銀行員全員と大企業が貧窮と破壊の真っただ中お金儲けをしていても、彼らを責めることはできないのです。

苦悩する何百万もの叫び声に耳を傾けるのを拒否し、これらの問題について家族や友達と話すことさえ拒否する時、私たちはどれだけの間、聞こえず話せないふりをするつもりでしょうか。私たちの愛情から子供達を奪うことを商業化におおっぴらに許し、イデオロギーと利己主義に基づき曖昧な政策を持った政治家の権威にどれだけの間頭を下げているつもりでしょうか。 私たちに何をすべきか、どちらの方向へ行くべきか、どのようにして幸せになるか、そして誰に投票すべきかを命じる − それ自体が分裂、精神的盲目、残忍さを繁殖させる主義の規則により条件付けされたまま私たちはどれだけの間いるつもりでしょうか。そして、毎日を新たな日として生きる自由を自己に拒否する傍ら、どれだけの間私たちはそのように怯えうずくまったままいるつもりなのでしょうか。今、これまで以上に私たちが自己の真の存在を抑圧することを遂にやめる時が確実に来たのです − 私たちは生まれつき慈悲深く思いやりのある人間なのです!

ベッドの上に腰掛け、床を見つめながら一人で家に居るとてもプライベートな時間を私たちは全員知っています。人生を顧み、仕事と家を失くすかも知れない絶え間ない不確実性と心配を持ち、家賃や家のローンを払うために大変必死で働くことの虚しさについて考えます。私たち自身の中に埋葬された全ての痛み、束の間の満足感と存続する暗黙の寂しさについて考えます。貰った微笑みと流した涙。幸せになることと愛されることへの絶え間ない切望。思い通りの相手を見つけるための必死で切なる思い;やがて迎える結婚;胸が張り裂けるような離婚。批判的で不誠実で強欲な社会に受け入れられるために続けねばならない不必要で精神疲労を伴うイメージの維持。夢の中で私たちを苦しめる不安感と年老いて拒否される恐怖。そして同じ政治家、同じつまらない顔ぶれと無数のくだらないゲームショウと番組を繰り返し繰り返し放送するテレビ。世界との関係の絶望的な見通しを持ってベッドに座っている時、私たちは社会がどのようにして自分たちをお互いの苦しみに対しそのように無関心にしたのかを考えるかもしれません。そしてシステムは子供達と自然から私たちを切りはなし、私たちのハートに残った僅かな愛を消耗する傍ら、全ての生き物へ対する私たちの慈悲心を衰えさせることに成功しているのです。私たちは全員、怒り、罪を感じ、自分は価値のない人間だと感じる瞬間を知っています。空虚感と絶望感が私たちの思考を圧倒する瞬間を知っています。そして、最後には電気を消して布団で頭を覆い、自分達自身の中で暗黙に問う瞬間を知っています:人生にはこれよりもっと意味があるに違いないのに!

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