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2014年12月01日15:58

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FURY

最初に、この映画の評価を書いておくと、「5点満点中、3点」といったところだろう。
 筆者は約3千字を費やしているが、それは時代考証に凝った前半部や、登場人物の描写に対してである。作品の終末部に出てくる「絶望的な戦い」については、「“ドイツ語を喋るゾンビ”を相手にするアクション映画じゃねーか」と、言わざるを得ない。
 それでも、独りで見に行く分には良い映画だし、色々と考えさせてくれる作品であり、軍事マニアでなくとも味わえるつくりになっている。なお、筆者が大阪へと見に行った時には、年配の方が観客の大半を占めていたが、見終わった後の表情は一様に…疲れていたのが印象的だった。
 ともかく、日本語版の予告編を、良い意味で裏切ってくれる作品であると言っておこう。

 



 この映画は、ひたすら陰鬱な雰囲気に包まれた「戦車」映画だ。しかし、筆者にそう思わせるところが、この映画のミソなのだろう。というのも、時代考証に凝りまくった作品だからだ。
 舞台は第二次大戦も終わりに近い1945年4月のドイツ本土。
米軍とソ連軍は共にヒトラーの首を絞めにかかっていた(後に両軍は、エルベ川にて邂逅する)。しかし、英米版予告編にあるとおり「戦争は、静かに終わらない!」そのような状況における、戦車兵の「命のやりとり」を描いているのが本作である。
 オープニングの米軍キャンプの様子たるや、ノルマンディーにミラー大尉が上陸してから1年も経ていないのに、100年間もドイツを相手に戦争しているような雰囲気になっている。
 4月の泥寧に大地はおおわれ、そこに掘られた大穴へと野戦病院にて切断された手足がブルドーザーで押し込まれていく。あたかもスクリーンから、死臭と硝煙、そして、汚物の匂いがしてきそうで、老若男女を問わない観客の皆さんが「むせる」こと請け合いだ。しかも、陽光に恵まれない4月の中央ヨーロッパの陰鬱な日差しと相まって、駐屯地の雰囲気は「暗黒時代」そのものだ。

 かくして「ドイツ零年」が近づきつつあった…。

 そして、泥につかった兵士の遺体が通行車両に繰り返し踏まれていくシーンは、『戦争のはらわた』へのオマージュであり、組織化された剥き出しの暴力の象徴だ。
 
 戦勝が間近に迫っているのだから、きっと米軍の兵士たちも「機嫌良く」戦争しているのだろうと思ったら大間違い!祖国を守ろうとするドイツ人全員を敵にして、命のやりとりを強いられる毎日を送っており、命を削りつつギリギリのところで神経のバランスを保つ日々だった。
 ロボットアニメに例えるのなら『ボトムズ』だろう。戦車乗りたちは、扱いやすくはあったけども、装甲と火砲では敵にかなわない「愛車」で戦っており、いつ自分たちの戦車が「鋼鉄の棺」になるか、わかったものではなかった。
 
 なお、劇中にある本物のタイガー戦車を用いた対決シーンは、本作の見どころのひとつであるが、当時の連合軍の戦車兵たちが置かれた状況が凝縮されている。
 なにせ、タイガー戦車と渡り合うには「物量と知恵と勇気」だけでは不足だったのである。何しろ、大量の「いけにえ」が必要だったのだから…。
 「進撃の日々」を送る彼等は、悪鬼のごとく戦闘する歩兵たちと共に敵を蹂躙し、塹壕にこもる生身の敵兵をふきとばし、ガザのイスラエル軍よろしく敵へと白リン弾(犠牲者に不治の火傷と苦痛を与え続けるため、使用が禁止されることになる)を撃ち込み、そして、生身の敵兵を踏みつぶしていく…。

 そんな中に放り込まれた18歳くらいのノーマン少年兵が学ばなければならなかったのは、「敵を殺すこと=仲間を守ること」という、陰惨極まる「前線の職業倫理」であった。気の良い彼は、おそらく「義務だから」と徴兵に応じたのであろうが、そんな「ヒューマニティー」なんぞ不必要であり、同僚の憎悪の対象ですらあった。
 そんな彼を、ブラッド・ピット演じるコリアー戦車長は、怒鳴りつけ、殴りつけながらも戦車兵にしようとする。「ちゃんと仕事をこなす=人を殺せる」ように。
 3年以上にわたって戦い、無数の戦友と引き換えに彼に与えられた武器は、「敵に対する憤怒=FURY」であった。敵を憎みきることで、彼は生き永らえてきたのだろう。あたかも、遭難者が憎悪によって生へと執着し、生き永らえていくのと同じように…。
 一応、兵隊も「公務員」であり、髪を撫でつけて髭もそっている。
 しかし、その雰囲気たるや、マフィアが逃げ出すほどの「極道」ぶりなのだ。
 もっとも、「極道」同然なのは彼だけではない。米兵たちは、市街戦に勝利した後に、占領した街において掠奪者同然に振る舞い、形だけの代貨と同意のうえで女性を組み敷く。どうやら戦場における兵隊というのは、どこの国の兵隊でもそのようなものらしい。そして、気にくわない捕虜がいれば、躊躇なく射殺した…。もはや「極道」ですらない…。

 そんな中でコリアー戦車長は、ひととおりの仕事をこなしつつある新兵に「ご褒美だぜ!」とばかりに、押しかけた家の若い女性と交わるように促す。
 しかし、娑婆を後にしてきたばかりの新兵は「意外な行動」に出た。音楽の心得のある新兵は、押しかけた家にあるピアノをきちんと奏で、女性のボーカルとともに演奏を楽しみ始める。之を見た、コリアー戦車長は、目を細めた。
 「“まともな事”をしでかすヤツに会うのは、久しぶりだぜ。」
 と、言わんばかりだ。そして、
 「俺たちの“殺人公社=軍隊”で、この坊やを“最低野郎(ボトムズ)=いっちょまえの兵隊”に仕込んじまっても良いのか?この戦争も、もうすぐ終わるしよォ…。」
 という考えが、彼の頭をよぎり始める。しかし、それも束の間、戦争で粗野にされてしまった彼の仲間と戦闘によって、コリアー戦車長と新兵は、コンクリートミキサーをかき混ぜたような現実へと、引き戻される。
 しかし、この辺りからだろうか?コリアー戦車長は、新兵を「息子」と呼ぶようになる。

 もっとも、すり切れつつある自らの「人間性」について考えていたのは、コリアーだけではなかった。砲弾を調整してから主砲へとくべる役割の装填手は、おそらく軍隊に入隊する前の段階でも、教育を受ける機会に乏しく、そして、更に過酷な軍隊生活のおかげで、すっかり粗野になってしまっていた。どこまでも「戦争マシーンの一部」に見える彼は新兵を見るなり、最初はつっけんどんにあしらうが、過酷な人生で培った「人を見る目」まで捨てたわけではなかった。 
 ノーマン少年兵の振る舞いは、古兵の彼からみて当初は滑稽ですらあり「育ちの違い」が目に付いた。しかし、彼なりに「新しい仕事」を健気に受け入れようとしているし、戦友を守ろうとしている。育ちの良さをひけらかさないところも、気に入った。なぁんだ、ただの「イイ奴」じゃねぇか。何で嫌う必要があるんだ!というわけである。彼は、こう考えたはずだ…。
 「もーすぐ戦争も終わるのに、何で坊やが“地獄行きの最終列車”に乗ったんだ…?」
 結局、彼は少年兵と二人きりになったところで、それまでのつっけんどんな振る舞いを謝る。 
「俺とは住む世界が違うが、お前はイイ奴だ。今までのことは、赦してほしい。」
 それは彼が、自らのなけなしの人間性を、少年兵へと分け与えた瞬間だった。

 抑えた色調は『プライベート・ライアン』由来で、戦車の撮り方は『レバノン』の監督から学んだのだろう。そして、情け無用の暴力描写はサム・ペキンパー監督の『戦争のはらわた』へのオマージュだ。
 この映画で最も恐ろしかったのは、実は暴力描写の方ではない!
 むしろ、人を殺せない少年兵を見ていくうちに、コリアー戦車長へと感情移入していしまい「早く殺せよ!(映画なんだから)」と、われわれ観客が思ってしまうところでは、なかろうか。もっとも、そのように思わせ、ハッとするのが、この映画の「味わい方」なのだと思う。
 
 ともかく、作品の終端部において少年兵は「英雄」にしてもらって戦争から去るのだが、筆者はノーマンが英雄に「なり下がった」とは思わない。彼が英雄に「された」のは、うんざりしつつ、残酷な戦闘にてたおれた無数・無名の「前線野郎」たちからの、なけなしの「餞別」だったと思いたい。

 もっとも、そのような人間性を「子どもを守るのが、大人の仕事だからなァ」と、これまた観念して戦場に赴いたドイツ兵たちも持ち合わせていたことを、我々は忘れてはならない。映画『橋』に出てきた伍長がそうであったように…

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