mixiユーザー(id:980114)

2012年12月02日02:31

1542 view

【ヴォイチェクは戦場に行った。―戦争に行ったクマさん―】後編

【熊のヴォイテクの戦後】

1945年に第二次世界大戦が終結すると、(第2軍団に従って)英国はスコットランドのバーウィックシャーに送られました。ダンズ近くのハットン村に暫くは駐屯し、付近の住民や報道の間で人気者になり、ヴォイテクはスコットランド・ポーランド文化協会の名誉会員に選ばれました。
地元のエジンバラの女たちはヴォイテクの好物のケーキを焼きました。それにジャム。
老人達はこう回想した。「そりゃもう、奴のジャム好きといったら!」
ヴォイテクは申し分なく栄養が行きわたり、身長180cm、体重250kgになっていました。
兵士たちとともに近くの町バーウィック・アポン・トゥウィードまで歩いていき、当時を知る老人達が言うように、地元のパブによく出かけたものでした。
ヴォイテクは本場のパブでペール・エールの味を味わったのです。


しかし長い戦争が終わった後、ポーランドの多くの兵士はポーランドに戻れませんでした。何故なら戦後の東西冷戦の影響で、故国ポーランドは旧ソ連共産圏になったからです。
戦後、ポーランドはドイツから開放されたわけですが、またもやソ連によって占領され、イギリス軍とともに戦ったポーランド軍兵士たちは、祖国に帰れなくなりました。その為、兵士達はヴォイテクを連れて彼等の祖国故郷に帰ることが出来なくなったのです。
ヴォイテクはどうなったかというと、イギリスのエジンバラ動物園で暮らしました。

軍隊の兵士たちの多くは、ヴォイテクとずっと一緒に居たかったので あくまでも一時預けるというかたちで泣く泣く故国に戻っていったのです。
その時の約束は、ポーランドが自由の国になったら、必ずヴォイテクを迎えに行くというものでした。
しかしその約束が果たされることはありませんでした。ポーランドはその時から40年、ワルシャワ条約機構により旧ソビエトに支配され、共に戦った多くの仲間はヴォイテクを迎えに行くことができませんでした。英国に残留した多くの兵士も同じです。彼等の大半も故郷に帰れませんでした。

1947年11月15日の動員解除のあと、ヴォイテクは軍を除隊してエディンバラ動物園に入園しました。結局ヴォイテクはエジンバラの動物園に寄贈されることになったのです。
11月15日、動物園の管理者たちは新たな動物を受け入れ用のしかるべき装置を用意してクマを待っていました。だがそんな装置は必要なかったのです。兵士がひざまずいて後肢の鎖をはずそうとすると、ヴォイテクは兵士の顔を舐め、みずからすすんでケージに入りました。それからようやく周囲を見回した。兵士たちが立ち去るとしばらく悲しげに鳴いていました。
その後、彼はそこで一人ぼっちで自分の時間を過ごし、時々訪れるジャーナリストや
英国に残った元ポーランド軍兵士の何人かは、ヴォイテクに好物のタバコを投げ与えていました。
フォト

あるときポーランド人漁師の団体がヴォイテクを見に動物園を訪れました。漁師たちは懐かしいポーランド語で話し、クマにごちそうを与えてました。ある瞬間、酒に酔った誰かが何かを野卑な声で叫ぶと、クマは突然逆上し、柵の棒をたたいたり吠えたりしはじめたのです。
これまでヴォイテクがこれほど攻撃的に振る舞ったことはありませんでした。皆一様に
驚き、残りの漁師たちは叫んだ男に殴りかかりました。
動物園の管理人がいったい何と叫んだのかと問い質すと、汚い言葉なので繰り返すことはできないという答えでした。
(注:※後の証言では、ポーランド語の『クルヴァ・ピーズダレイ』:英語のF●ck Youに相当と判明)
つまりヴォイテクは、ポーランド語でどんな言葉が不作法かを学んで理解していたのでした。

彼の戦友であった英国に残った兵士たちがヴォイテクに会いに動物園に行くと、柵の中に入ってもよかったといいます。管理者たちはゾっとしても、観客はもう大喜びで、兵士らがヴォイテクとレスリングやボクシングで格闘するのを眺めました。
兵士の1人はヴァイオリン持参で、ヴォイテクにポーランドの曲を聞かせてやりました。
するとヴォイテクは楽しそうに脚を前後に動かすのでした。
フォト

しかしヴォイテクはもうかつてと同じクマではなく、その振る舞いには悲しみが勝っていました。
他のクマと共用の飼育場にましたが、仲間といるのは好まなかったそうです。
いつも飼育場の真ん中にある岩山によじ登って、その上でうとうとと、まどろみました。
まるで楽しかった戦友との日々を思い出すかの様に…
それがヴォイテクの晩年でした。
時折、懐かしい戦友たちの声の響きであるポーランド語を聴くと 耳が動いたり、ポーランドの歌を聴くと踊ったりしたといいます。やはり賢いクマだったのですね。

ポーランド語を聞くとたちまちそこから下りてきました。ある女性は1961年に訪れたときのことをこう回想する。「3頭のクマが岩山の上に寝そべっていました。観客がいくら呼びかけてもクマは1頭も振り向こうとしませんでした。でも夫がポーランド語で呼んだら、ヴォイテクが頭をもたげ、下に降りて柵に近付いたのです」

フォト


1963年12月2日。ちょうど50年前の今日、ヴォイテクは未だ見ぬ第二の故郷ポーランドを
その目で見ることもなく22歳で死去しました。
永眠したときの体重は約250kg、体長は180cmを超えていたといいます。

ヴォイテクは幸せだったかというと、どうでしょう?
動物園では 戦争に行ったクマということで有名になり、
ヴォイテクを目当てに子供たちが訪れました。
英国皇室チャールズ皇太子がその息子達を連れて訪れたとき、3人は
御付のガイドに対し、キミ達よりヴォイテクの話はよく知っているので説明しなくてよいと言ました。
動物園では良くしてもらっていたといいますが、やはり軍隊にいたころのように
自由はなかったでしょう。 なにより共に戦った戦友たちと離れ離れにされ、
ひとりぼっちで淋しかったのではないでしょうか? 
まんもちゃんはそう思います。


フォト


日本にも、こんな話があります。昔あるマタギが山の中で羆の小熊を拾い、優しく育てました。
よく懐き、賢いこぐまでした。しかし、マタギと熊。狩る者と狩られるもの。
マタギは、熊が自分で餌が捕れる様になると小熊を山に追い返しました。
      ○-○
       ( ^(ェ)^) <キュマァ!
ヨチヨチ ((.c(,_uuノ

ある日一人の少女が山に迷い込み、村では神隠しにあったと騒ぎになります。
村人は総出で山狩りを行いますが、少女は見つかりません。
しかし一週間たったある日、少女はひょっこりと村に帰ってきます。
少女は、山で迷って夜に凍えそうになっていた時、大きな黒い熊のようなものが、
雨露しのげる大きな木の祠まで連れて行ってくれたと言うのです。
不思議なことに、朝になるとほこらの入り口には少女が食べれそうな木の実や果実が
毎日置いてあったといいます。それで命をつないだ少女は村に戻ってこれたのだというのです。

村人は口々にそれは狐に化かされたのだとか、天狗に助けられたのだと言って
少女の言うことに取り合おうとはしませんでしたが、件のマタギだけは違いました。

『そったらコト出来るのは、アイツしかいねぇ!アイツに違ぇねえ』そう思ったからです。
なぜなら、その果実や木の実はマタギが昔、小熊に与えていた種類のものだったからです。マタギは少女の話を聞くと一目散に山に向かい、山の中で大きな声で叫びました。

『お〜い、熊公!アンガトなぁ〜!しかし、お前は里の近くに居ちゃなんねえ!
ここらは危ねぇ。もっと山の奥に帰れやぁ〜!』 

マタギの声が山々にこだまして響き渡り終えると、遠くで確かに熊の鳴き声がそれに
呼応するかのように聞こえました。

マタギは熊に更に深い山奥に帰山を促すかのように、空に向けて銃を撃ち放ちました。
銃声のこだまがやんだころ、マタギは遠くで熊の鳴き声がかすかに聞こえた気がしました。
その後、マタギはその熊に二度と会うことはありませんでした。
まだ、里山に日本の自然が残っていた頃のお話です。
フォト



さて、熊のヴォイテクが幸せだったのかどうかは分かりませんが、ポーランドの兵士たちとは不思議な絆の縁で結ばれ、戦友としてまるで人間のように生きたクマの一生は不思議なおとぎ話のようです。

故郷を離れ親とも離れの孤独な兵士たち、親を失った小熊。戦争と言う極限の状況の中で、心優しき男たちは小熊のことを自らの家族のように愛し育てました。
成長した小熊はその愛に応えるかの様に銃弾の降り注ぐ戦場で駆け回り彼等を支え続けました。
この奇跡は歴史と戦争に翻弄され続けたポーランドに神様から与えられた贈り物ではなかったかと思うのです。

戦争が無ければ出会うことも無かった一頭の熊と百人の心優しきポーランドの男たち。
今から60年前の遠い異国の話ですが、人と動物との関わり方、戦争の悲しい歴史と記憶と一緒に 忘れてはならない話だと、半世紀経ったヴォイチェックの命日にまんもちゃんは思うのです。

Wojtek、rest in peace.今度生まれてくる時はポーランドに生まれるといいね…

フォト


【Art Of Noise - Robinson Crusoe :1989 】
4 2

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する

<2012年12月>
日 月 火 水 木 金 土
      1
2345678
9101112131415
16171819202122
23242526272829
3031