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2011年10月14日12:17

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山下家�� No.1

私の両親は、大阪で出会ったと思われる。

母は大阪外大、父は大阪歯科大だ。



父の家系は、おそらく先祖は名もない水飲み百姓だ。
父はひた隠しにしているが、親戚には有名な的屋のグループもいるらしい。
絶縁して、全く関係ないという状態だが、向こうはそうも思ってないとこもあるらしい。

祖父の代から山下家は歯科医だが、戦中戦後というのもあり、かなりの問題を抱えていた。



私の父は、貧乏な生活から脱却すべく、1人でのしあがった。

勉強し、歯科医師資格を取るまでストレートに進み、24歳で歯科医となった。


診療所を大きくし、弟(私の叔父)の大学費用も全て払った。

父は20歳代という若さで、兄弟の大学や生活費用、父方の祖父母の生活費も全てを出していた。(現在では新しい大きな近代的な診療所も作った。)

そこまでの自身があり、自負もあった。






母の両親は、平家の生き残りの豪族の分家で、幼少期には大豪邸に住み、女中さんもたくさんいたという。

福岡の柳川の方では、『吉開家(吉の字の下の線の方が長かったきがする)』という、大変、家柄が良い一族だと聞いた事がある。

ただ戦争で、蔵の中にある、刀や財宝は全て没収され、大砲の弾となったそうだ。





そんな中で、母方の祖父は、海上保安庁入りし、有名な 『南極探検隊』 の宗谷号の通信長として南極にも行った。

最初にタロウとジロウを一番最初に見つけたのは、祖父の 大橋久蔵 であると言う話だ。

実家に帰れば、本物のタロウ、ジロウの写真や、ペンギンと遊ぶ祖父の写真などが今でも残っている。


祖父は天皇から勲章ももらった経験があるし、功績をたたえられて東京の赤坂の土地をもらった事もあるし、天下り的な良い仕事も与えられた事があるらしいが、欲のない人で、全てお断わりしたそうだ。

東京の土地をもらっても住まないし、私は子どもが好きなので、福岡の田舎で幼稚園の園長がしたいと言ったそうだ。

この幼稚園の件も、祖父の言葉を受け、あの笹川会長の指示のもとで行われたそうだ。

赤坂の土地の税金は高いとは思うが、相当な広さだったらしいので、一部を売ったりしてうまくやれば、かなりの価値にはなっていたと思うが、そういう事には興味がない人だったらしい。

実際、体が動かなくなって引退するまでは、ずっと柳川の保育園で園長さんをしていた。






祖父は、分家とは言え、豪族の末裔なので、かなりの土地を持っていた。

しかし、これらの土地を無料で、農家の人に貸していた。

それを見かねた、祖父の弟が、それでは私が管理すると言って譲り受けたらしい。

しかし、この因果関係を証明する書類が一切なく、後に母が、祖父が亡くなった後に土地の権利を主張したが、戦争時代で登記が定かでないとの理由で、すべて祖父の弟の土地になった。


母がなぜ、この相続にこだわってしまったのかは、もっと後で書くことにする。


母方の祖母は、非常に絵の才能が有り、絵と書道は、無鑑査で、指導する立場にあった。
ところが、とてもひょうきんで、突拍子もなく、破天荒な性格だった。

いつも周りが振り回させるといった感じ。








後に母が語った事であるが、父は、母方の家柄の良さに、嫉妬していたらしい。
母方の祖父母が褒められるような事になる度に、苦虫を噛み潰したような顔をしていたらしい。

父には、自分が1人で全てを作り上げて、貧乏から金持ちへとのしあげたというプライドがあったのだ。






母はその育ち良いお嬢様だった。

結婚して、初めて高知県にきて、その性格、しゃべり方に驚愕した。
みんなが暴力団関係者に思えたほどだったらしい。

父も最初はそれが良かったのかも知れないが、しだいにそのお嬢様のどん臭さに苛立ちを感じるようになった。



母は結婚1年目にして、はじめての暴力を受ける事となる。

父からすれば常識的な事ができない母に対する我慢が限界を超えたという事だったのだろう。

母はあまりにショックな出来事過ぎて、数日寝込んだらしい。

後に、殴られるどころか、怒鳴られたのも人生で初めての出来事だったと話していた。








そんな中、私が生まれた。

昭和46年7月19日の出来事だ。

当日は、台風で、雷鳴が鳴り響く集中豪雨、飛行機も相次いで欠航となるような天候だったらしい。







待望の長男という事で、生まれてきたが、父にとっては初めての子どもでどうしてよいか分からない事だらけだったようだ。

私が泣けば、母に 『うるさい!だまらせろ!』と怒鳴り散らした。

母親は、私を抱いて泣き止むまで、外に出たりしていたそうだ。





年子で妹が誕生し、それから2年後に弟が誕生した。

末っ子弟は泣き虫だった。

幼少期のあだ名は 『えんえんちゃん』

いつも、えーん、えーんと泣いてばかりだからだ。





まだ、弟がハイハイしている時に、私は、父の日曜大工につき合わさせられた。

板と切って、ヒンジを取り付け、紐をとりつけた。

弟も、ニコニコして、寄ってきたのを覚えている。

じつはこれ、ベビーベッドの蓋だったのだ。

弟が泣いた時に、蓋つきのベビーベッドに入れて、だれも使っていない暗い部屋に放置されて、泣き疲れて寝るのを待つという作戦を実行する為のDIYだったのだ。

弟は、ニコニコして見守った作業により出来上がった品物で、苦しめられる事となった(笑






父は、完全に暴君で、家庭内では、父が法律だった。

勉強しないと殴られる。

箸の持ち方が悪いと殴られる、ごはん食べさせてもらえない。




私が小学校の時、ウチの歯科医院の忘年会を家でやった時の話だ。

父が母に、『おい、お前、おもろい事やれ!』と、無茶ぶりした。

当然、母はそんな芸は持っていない。

運が悪い事に、ちょうどいい時間だったし、半切れになった父が怖いのもあって
みんなが、『じゃー、そろそろ、おいとまします!』って感じになってしまったのだ。

父は、外面というか、大衆に対しては、相当、頭が低く、丁寧な人間なので
みんなを笑顔で、見送った。

しかし、全員が帰った瞬間。

『おい、コラ!お前が、芸せんかったせいで、みんなーシラけて帰ったろうが?』
『お前、責任とれーや、コラ!』

などと、烈火の如く、ブチ切れた!

母は殴られていた。





1週間のウチで、たぶん2〜3日は、必ず怒鳴りあい、最悪だと暴力まであった。

小学生だった私達兄弟にとって、それは、おそろしく、兄弟3人で枕を耳に当てて、怒鳴り声が聞こえないようにして寝た記憶がある。





母は、かなり頑固で、まず一緒に冷静になって、というしゃべり方ができない。
相手の欠点をズバズバ言う。

火に油を注いで、その結果、殴られる。


暴力を振るうのはダメだと思うが

『このタイミングで、その言葉を言うなーーー!!』

と、当時は、よく心の中で叫んだもんだ。






母は、その暴力に耐えかねて、一度、家出した事がある。

ほんの1週間程度だが、ホテルに逃げていたらしい。



母は、1週間ぶりに帰ってきて、泣きながら 『ごめんね』 と、ずっと謝っていた。

色んなお惣菜を買ってきてくれたので、兄弟でそれを食べた。

そうしているうちに、父が帰ってきた。




母が買ってきた食べ物を食べている私たちを見て

その食べ物を腕で薙ぎ払って、すべて地面に落とした。

『毒が入ってるかも知れんから、お前ら食ったもん全部、吐き出せ!』

と、怒鳴られた。




ほどなく、私たち、兄弟3人は、正座させられた。

その前で、母は父に服をつかまれている。


そして、おもむろに私たちの兄弟の前で、母を殴った。

『こいつ(母の事)は悪い事をしたから、きちんと躾をする』

『お前ら(私たち兄弟の事)、かなしいか? 泣けや、コラ!』

などと、いう苦痛な時間が30分ほどは続いたと思う。
心の中ではこの30分は1日に匹敵するほど長く感じた記憶がある。




私は、小学校5年以降は 『いつか、こいつ(父の事)殺してやろう』

ずっと、そう思っていた。







                                           つづく
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