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2010年10月29日00:32

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【THE LAST 白虎隊】― もう一つの「坂の上の雲」―≪後編≫※長文御免

【THE LAST 白虎隊】― もう一つの「坂の上の雲」―≪後編≫
※前編はコチラバッド(下向き矢印)
http://mixi.jp/view_diary.pl?owner_id=980114&id=1611180848



☆【 第一章 : 頼三とサダさァ ― 飯沼貞吉と楢崎頼三 ― 】★


花の都おフランスはパリ。そのモンパルナス駅程近く、モンパルナス墓地十三区に
一人の日本人が、ボーボワールやサルトルと共に、人知れず眠っている。

ゲインズナブルやサルトルの墓に花を手向ける人はいても、
彼の墓に花を手向ける人は稀である。


http://www.ricetech.jp/press/press150902.html

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墓碑には2505年5月15日、日本の長門に生まれ、
2535年2月17日にパリで死んだと墓石に書いてある。

お?何だ?おフランスでも生前葬アリなのか?
それともコノ死者は未来から来たのだろうか?

実は、この上に日本風の墓石もあってそこには、
漢字で【 楢崎頼三 】と言う日本人の墓である
と 彫られてある。 また、故日本国陸軍士官とも書いてある。

この辺まで書くと勘の鋭い人は気づくだろう。
2503年、2535年はいずれも西暦ではなく、皇紀なのだ。

確か昭和15年、1940年が皇紀2600年だったから、
皇紀2535年は西暦1875年、明治7年となる。


楢崎頼三で検索すると、この人は長州藩士で大村益次郎の片腕として
官軍の会津攻めに中隊長として参加し、後に白虎隊の生き残りである飯沼貞吉を養育し、
長州と会津の関係修復に尽力した人である。


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http://www.fan.hi-ho.ne.jp/gary/narasaki.htm
http://www.city.hagi.lg.jp/hagihaku/event/0811ishintohagi/naiyou.htm
http://hagihaku.exblog.jp/10059426/
http://www.ricetech.jp/press/press150902.html


楢崎頼三は、鳥羽・伏見の戦の後、慶応4年2月に中隊長(第二中隊司令)となり、
東山道先鋒軍に加わり、関東各地を転戦。
新式のライフル銃を装備した長州藩兵の中隊(100人規模か)を率いて戊辰戦争に従軍します。

戊辰戦記には頼三は新政府軍の中にあって「智勇万人にすぐれ、
種々計略をもって諸隊をいさます、古今の勇将なり」と記されています。

戊辰戦争中、武州、総州、野州と転戦し、奥州入り口の要衝である白河口の戦い。
『 白河小峰城攻防戦 』に参戦しています。

楢崎頼三率いる長州施条銃足軽第一大隊二番中隊、大垣藩兵が2個小隊、忍藩兵が1個小隊。総計約280名。少数精鋭主義をモットーとする官軍の名参謀伊地知ならではの選抜とも言えます。

第二次長州征伐で幕軍を叩きのめした実績を持つ楢崎の手腕は高く評価されていました。
長州兵のキャリアは敵味方を通じてずば抜けている。
関東諸藩の実戦経験の無い軍隊に比べ、四年も先んじて砲火の中に居続けていた。
どの男も戦争の臭いが染み付いていた面構への古強兵でした。

白河城攻防戦は、戊辰戦争の激戦の一つで、薩摩藩、大垣藩、忍藩、長州藩の兵士からなる
新政府軍700余名が、奥羽越列藩同盟軍2000余名と交戦しました。
この戦いが、戊辰戦争の行方を決定付けたとも言われています。

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文書によると、武州での緒戦から会津での終戦までに、楢崎の部隊においては、
戦死・治療中死20名、負傷42名を数えています。
100名規模の部隊ということですから、死傷は三分の二exclamation & question

まあ、今のランチェスター戦略判定でいいますと、、、
部隊的には戦力判定『 壊滅 』状態なんでつがネw 

因みにコノ時、上司は大村益次郎とゆー長州が生んだ帝國陸軍の創設者にして天才軍師で、
どんな戦況でも冷徹な計算と洞察力とで分析しその指示は外れることはなかったが、一方では摩擦が絶えなかった。戊辰戦争の白河攻撃のとき、大村は、現場の官軍側の再三にわたる
弾薬の催促を拒否したので、血気盛んだった現場の隊長の楢崎頼三らが
「テメー!ヌッ殺してやる!こちとら人死んでんねんで!」と息捲いて喰ってかかったのでつが、

「スナイドル銃二百丁分の弾がもあるから、それで充分白河は陥ちます。
君らの言う通り渡せば、他からも言って来る。負傷兵が多いからってソレはどうにもならぬ。
別に死んだらそれでもいい。だって君たちは手駒だモンw」

と、それでも冷たく素っ気なく答えている。
現場の人楢崎来三は地団太踏んで悔しがったと謂います。

大村このような冷徹で論理的な姿勢は一方では頼もしく映るも、
逆にとても冷淡にも受け取られることもあり、後に大村が暗殺されるような
敵を多く作る一因でもありました。

コノ時、頼三自身も、白河城攻防戦中最大の激戦であった1868年5月1日の戦闘で、
右腕に銃弾を受け負傷しています。

その後も会津に至り、鶴ヶ城攻囲戦の指揮を執り、9月22日に陥落させ、
降伏式にも幹部の一人として参列した。

このように戊辰戦争の最前線で戦ったのは、士官の楢崎頼三や、軍艦丁卯丸艦長の
山県九太郎たち長州の現場の若い衆でした。

彼らは、作戦指揮した山県有朋や山田顕義も顔負けの戦士だったのです。
会津戦争後、猪苗代で謹慎処分となっていた旧幕府軍と諸藩の脱走兵四百六十余名を
東京へ護送する役目を受け、それを果たした後、12月に帰郷。

この時、彼は一人の会津の少年を伴っており、書生として面倒を見るつもりだったという。




★【第二章 : 仇と恩人、恩讐の道行き 】☆

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山口県の山間部にある小杉村の高見家では年に一度、語られる話がある。
小杉村は、現在の山口県美祢市(秋吉台)辺りである。

「明治元年の冬、長州の山奥の小杉村にある日突然謎の少年が現れた。

長州藩士楢崎頼三はその色白の少年をサダさ〜と呼んでいた」
この話は口伝のみで文書には残っておらず「その少年が誰なのか?
どこから来たのか?」長い間謎であった。

会津戦争後、楢崎頼三は会津から自分の領地である小杉(現在の山口県美祢市)に
連れ帰った少年を「サダさァ」と呼んで自分の兄弟のように可愛がっていたという。
その「サダさァ」が、会津白虎隊の生き残り、飯沼貞吉(後の飯沼貞雄)であったという説がある。

少年飯沼貞吉は、城が燃えていると誤認して飯盛山で自刃に及んだ白虎士中二番隊二十名の一人で、咽喉を突いて意識を失ったものの死に切れず、微禄の会津藩士・印出新蔵の妻ハツに救出され、たまさか会津にいた越後長岡藩の医者(河井継之助を看取った)の手厚い看護の甲斐あって一命を取りとめた。

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飯沼貞吉は、会津藩降伏後、他の会津藩士達と共に謹慎。
許された後は、静岡の林三郎という学者の塾に学び、
明治五年に東京の工部省技術教場に入り、電信技師となりました。
彼が楢崎頼三と出会ったとすれば、まさに謹慎中のこの時のことと思わます。

幾つかの研究・解説書によると、飯沼貞吉が飯盛山で仲間と共に自刃に及んだものの
死に切れずに蘇生、救出されたことを恥じて悶々と日々を過ごしていました。

戊辰戦争後の謹慎中も、貞吉が殆ど外出もせずにいることを聞き知った楢崎頼三が、

「サダさァ、俺と一緒に来ないか?俺の故郷はイイとこじゃけぇ。」

と、彼に声をかけて長州行きを勧めたのだと謂ふ。
生きる目的を失った貞吉の心情を哀れんで長州に伴ったのではないか、と云うことである。

この時、政府軍の幹部とは言え、楢崎頼三は、まだ二十歳そこそこの青年。
貞吉はまだほんの十四〜五の少年である。一見兄弟にも主従にも見える2人。
ほんの一月前までは、互いに命の遣り取りをした「敵・味方」同士の間柄。
その恩讐を超えた二人の東海道〜山陽道の道中はどのようなものだったのだろう。

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ともあれ、明治元年12月、
粉雪が舞う中を貞吉は楢崎頼三に連れられて、知行地の小杉(山口県美祢市)に向かった。
そこで、出迎えたのが楢崎屋敷で奉公していた高見フサ当時14歳だった。
http://byakko1868.web.fc2.com/album02.html

楢崎頼三は、間もなく征韓論で下野した大村益次郎の後任として上京。
兵部省兵学寮(後の陸軍士官学校)担当として出仕し、長州と東京の間を
慌しく行き来することになる。

その後、少女フサが喉にも心にも深い傷を負った貞吉を
「貞さぁ」と呼んで、身の回りの世話をしながら、貞吉を励ましたのだと謂う。

証言者は、佐藤内閣時の元文部大臣の高見三郎の祖母フサ(楢崎家の奉公人だった)や
実兄で、高見氏が少年期に勉学の場として、「サダさァ」こと貞吉が滞在した部屋を
間借りしていたことから、この話を地元の郷土史家に話していたという。

フサには2人の娘がいた。長女トシは養子を迎え、高見家を相続し、5人の子に恵まれた。その長男が広義氏で市会議員を務め、三男敬三郎氏は苦学して佐藤内閣の文部大臣を務めた。
綾子さんは広義氏の長女に当たり、
正月や盆に小杉の実家に戻るたびに、「貞さァ物語」を聞かされたという。
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そして、昭和46年高見三郎氏が文部大臣になって、小杉に帰郷した際に、
「貞さァは、白虎隊の飯沼貞吉である」と、はっきりと教えられたという。

文書で楢崎頼三が長州に伴った会津の少年が飯沼貞吉であったという確証はないが、
他にもこんな話が残されている。

「楢崎は凱旋の時に馬に乗って帰って来たが、その轡をとる十五、六歳の少年がいた。」
「楢崎の凱旋祝いの席で、ある村人に『お前も戦争に負けて此処に来たのだから、さぁ呑め、呑め』と言われ、その少年は顔色を変えて自刃しようとした」等々。

また、山口県には「白河踊り」と呼ばれる盆踊りが、各地に伝えられています。
不思議なことに山口県で、なぜ福島の「白河踊り」なのか・・・・?
特に、この美祢市小杉集落に多いのだそうです。




☆【第三章 : 「仇と恩人」。 戊辰戦争直後の若き長州藩士と会津藩士。】☆


この長州の青年と会津の少年の奇妙な同居生活は、二年ほど続きました。
最初の一年は山口県の小杉(現美祢市・秋芳洞付近)で。

二年目は、頼三の仕事にともなわれて、東京は神田神保町駿河台裏の借家
(※兵部省・兵学寮官舎)で。この間、頼三は仕事の合間を縫って貞吉の今後の就学先や、
就職先の世話をしていたといいます。

当時大村益次郎は、長州藩の前途有為な人物を選んで横浜の語学所に入校させ
しかるのちに欧州に留学させる構想を抱いていました。

大村は藩の重役と謀って、桂太郎、楢崎頼三及び曽根荒助、馬屋原次郎らを横浜語学所に
入校させることにしたので、頼三はいよいよ忙しくなってきていました。


維新後の明治3年10月、頼三は、当時フランス兵式化を急務としていた兵部省の命で
官費留学の第一期生の10名に選抜され、フランスのエコール・ド・ポリテクニクへ
留学することになりました。


前年に他界した彼らの師匠である大村益次郎は今際の際に、

「ストラトギー(Strategy)を知らずにタクチーキ(Tactics)を語る者、遂には国を誤る。」
                      大村益次郎(兵部省大臣)

と謂う餞別の言葉を贈り、彼らをパリに送り出しました。
1870年(明治3年) フランス船籍のVOLGA号で、横浜港より出航。

頼三達は最初の一年は小学校で子供達に混じり一から仏語を学び、
そのうち中には数年のうちに大学院で論文を提出し博士号を取得するに至る者さえいました。

楢崎頼三はグラン・ゼコールで兵制と法律を修めましたが、帰国直前に結核に罹り、
明治8年2月17日、パリで帰らぬ人となりました。

頼三には明治元年に生れたばかりのまつのさんと云う女の子さんの娘さんがおり、
かわいい盛りの女の子を残して母国に帰れなかったことを思うと、一層不憫で気の毒でならない。

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また帰国した頼三の同期生の多くは日清、日露戦争で散ってゆくことになります。
頼三の墓碑は今もパリ市内のモンパルナスにあります。享年31歳。

後に総理大臣まで昇り詰めた頼三の友人の桂太郎は、楢崎頼三をこう評しています。

頼三兄ノ訃報ニ接シテ/ 桂太郎(親友):

帰朝の途次仏都巴リを過ぐ。而して に志を同くして語学所に入校したる親友楢崎頼三は、陸軍幼年学校に止まりしが、素志を達して仏国に留学中なり。我は本国を去てより初めて此人に遇ふを得、互いに久カツを叙したり。楢崎は仏都に来りて既に二年以上に及び、仏国の事情にもよく通じたりしが、不幸にして健康を損じ居たるを視て、我はカレを勧めて、兄は我より齢二年早く生まれたれば、申さば晩学にて、到底兄が多病の身を以て青年者と学事に競争するは難し、兄は事を為さんとするこそ前途の志望となるべけれ、然らば先づ学業をすてテ事を為す方鍼を執り、我と共に帰朝すべしといひしが、カレ敢て可かず、留まりて仏都に在りて猶も学事に勉め、且競争上我に一歩をコエて進まん為め、暫く仏国に留りたる上、更に伯林に至りて普国の兵制をも研究したる後帰朝せんとの志を懐きしなり。 くすれば仏普二国に就て研究の功を積み、我に一歩をコゆるを得べしとの競争の点より出たり。故に我は遺憾ながら病める友を伴い帰朝する能はず、別れを告げて仏都を去れり。楢崎といふ人の我が為には親友にして、また益友なり。且競争の友なりしことは、此一事にても知るに足れり。然るに楢崎は天之に寿を仮さずして、幾くも無く鬼籍に上りしが、まことに惜むべく悼むべきことなりし。
(『桂太郎自伝より』)

上記の弔辞では、桂太郎がその自伝の中で「益友」と呼び、
「病気を治してから、もう一度来て勉強を続ければ良いではないか」という桂の必死の説得にも
かかわらず、パリに残り、結核でなくなった。兵部省に残る、亡くなる一ヵ月前の帰朝通達が悲しい。
また上記の弔辞では総理大臣桂太郎は、彼のことを終生のライバルであったとも述べています。
またパリで合流して仲良しになった最後の元勲こと西園寺公望は、
後の1910年(明治45年)2月26日に 以特旨贈従四位を特別に追贈しました。



一方国内では、飯沼貞雄は佐賀の乱、萩の乱等に忙殺される中、明治8年3月、
貞雄は国際電信記録で、楢崎頼三が留学先のパリで客死したことを知りました。

頼三は貞雄にとって、命の大切さと生きることの意味を諭してくれた恩人です。
頼三が帰国すれば重要な任務に就き、国際的視点で日本をリードしていったに違いありません。
日本は将来性豊かな好人物を失い、貞雄は何の恩返しも出来ないうちに
掛け替えのない恩人を、永遠に失ってしまったのでした。

楢崎頼三自身は「サダさァ」とのことについては何も書き残しておらず、
明治三年、パリ留学のために横浜の波止場でサダさァが楢崎頼三を見送ったのが
最期、頼三とサダさァの今生の別れとなりました。



 『サダさぁ、戦はもう、懲り懲りじゃろ? サダさァ、勉強して偉い学者になれ。』



それが、頼三が貞吉に贈った最期の言葉でした…



昭和まで生きた貞雄も何も語り残していないので、実際の真相は不明のままであるが、
楢崎頼三が捕虜となった貞吉を長州に連れて帰ったのは、当時貞吉は生き残った為
脱走兵・敵前逃亡兵扱いされ会津に居るのが辛かったと思われるので、頼三について行ったとしても何の不思議ではない。

また、後に電信技師となった貞雄の最初の赴任先が二人が暮らした旧長州藩の小杉に近い
赤間関(山口県下関市)であったことから、ここにも何か縁があるように思えてならない。

ただ、近年の調査では、長州藩士楢崎頼三のひ孫に当たる松葉玲子氏の言によると

「頼三が会津の飯沼家母宛てに 『貞吉を預って養育している。どうかご安心下さい。』

という旨の密書を送った」と聞かされたたのだと謂う。
さらに玲子氏は「このことは誰にも言ってはいけないと言われて育った」と語っている。
 

また、貞吉の兄と楢崎の実父の名が同じ(源八)という偶然も、
無理矢理縁づけてしまいたくなるのだが…w
いずれにしても、奥平謙輔と同様、楢崎頼三もまた、会津の少年を書生として
面倒をみようとしたことだけは間違いないだろう。

維新後140年以上経過した今もも尚、山口県萩市の市長さんが
昔のコトは水に流しませんかと 会津に訪問の打診をしても会津の市長さんは
『 未だ、早ようございます。 』 と謂うのだそうです。

こういった遺恨ばかりが話題にされる会津と長州の関係に
温かな光を投げ掛けてくれれば、と思う次第であります。


『すぎし世は夢か現(うつつ)か白雲の 空にうかべる心地こそすれ』 飯沼貞雄 辞世の句

1931年(昭和6年)2月12日、飯沼貞雄は昭和の御世まで生き、77歳で生涯を終えた。
戒名は、白巖院殿孤虎貞雄居士。





参考文献 :一坂太郎『長州奇兵隊 勝者のなかの敗者たち』、
        一坂太郎『防長の隠れた偉人たち』、
        田村哲夫編 『 防長維新関係者要覧 』、早川廣中 『 真説・会津白虎隊 』
http://www.city.hagi.lg.jp/hagihaku/hikidashi/jinbutu/35.html
http://www.ricetech.jp/press80921.htm
http://www.fan.hi-ho.ne.jp/gary/narasaki.htm
http://www.c-able.ne.jp/~oomine-e/omine-rekisi/narazaki.pdf


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