最近ネットでは流行りを通り越して常識と化してきた…
「ソースはどこからですか?」
という姿勢が私はかなり好きではない。キリストに詳しい研究者がキリストについて書いた本だからそれは正しい?教科書で教えている事だから間違いない?アホくさい。
1192年 鎌倉幕府成立。 いい国作ろう鎌倉幕府… これはもはや誰でも知っている常識だが、これが100%正しいかどうかは知る術はない。最近では1185年という説もある。正しいとされる文献が果たして本当に100%正しいか?など調べる術はないのだ。80%正しいとか10%くらい正しいとか…どういう意味だろうか?その意見が世間的に優勢か劣勢かというのなら分かるが、真実であるかどうかは判別するまでは常に50%だと思うのだが…。
放射性炭素年代測定の神話が崩壊すれば古代の歴史など簡単にコロコロかわるだろうし、それらを必要以上に過信する意味が分からない。
ある意味でこれは宗教だと思う。証明された科学や正しいとされている事にすがらないと生きていけなという宗教だ。多くの宗教はその道徳の判断を宗教に委ねているので全く同じ意味のように感じる。
ソースがあれば信用する。 単なる一般人の持論なら卑下する。 そうじゃないやろ!!
自分の頭でもっと考えろ!! って思う。 判断の基準を他人に委ねるのもんじゃないだろ?
『世間一般的に正しいとされる事は、たとえ間違えていても現時点では正しいとする。』としている国の姿勢を『国が正しいと言っている事は100%正しい』と履き違えているバカチンは相当数存在するのではなかろうか?
私は『物事を自分の脳で考えろ!』と言っているだけで、何でもソース元を確認する行為が常に愚かだと言っている訳ではない。当然ソース元を確認する事に意味があるケースもある。ではその例を少しあげてみよう。
新しいニュースの信憑性を確かめるのにソース元を問うのはあまり問題ないと思う。デマを流されたのではたまらないので確かめたいという気持ちは理解できる。ただどんなニュースであっても絶対に正しいと思わない姿勢を持っている方がよいとは思う。『6時のニュースで公表されていたし正しいんじゃないかな?』というスタンスくらいで十分で、むしろ政治家によって情報コントロールされて湾曲された情報を流しているかもしれないと疑ってかかるくらいが丁度いいと思う。
次に国語の問題。本来もっと日本国がきちんとしたガイドラインを敷くべきだと思う。『間違ってはいないが一般的ではない…。』 『誤用であるが現在は一般に使われている。』など曖昧すぎる。こういう事柄に対してソース元を求めて議論する事は意味があると思う。
最後に人間がそう決めてしまっているような前提についての議論。
赤い色を『赤』と決めてしまえば、それは間違いなく『赤』である。なぜならそう決めたのであるから。
数学では 1+1=2 である。それはそうする事に人間が決めたのだから、そうでしかない。
世の中で100%正しい事はない…。なんて事を言う人がいるが、理論の世界に限れば100%は存在する。上の例はまさにそうだ。よく『1+1=100にする』なんていう表現をする事もあるが、それは数学ではない。数学では 1+1=2 は100% それしか存在しない。そういう人間がルールを設定したような理論についての議論では『ソースは何ですか?』と聞く意味があると思う。理論を解く為にソース元を勉強する必要であると理解できる。
しかしそうではなく哲学や思想学的な物に対して『アリストテレス先生が言う事に間違いはないだろう』とか『中卒のガキの言う事はあてにならん』とか、そんな考えでよく恥かしくないもんだなと思う。物事の本質を自分の脳で考えるつもりはないのだろうか?信用するかしないかはデータがどこから来たかではなく、データの内容を自分で解析した結果で判断するものではないのか?
自分が今まで習ってきたような慣れ親しんだスタイルでしかディスカッションできないカタワが多いという事か…。
私の持論では、理論は論理的である必要はない。もっと自由に表現していいと思う。今まで信じてきたような当たり前は、当たり前ではない可能性だって十分にあるのだから、まったく法則を無視したやりかたであっても、それは十分に真理で有り得る。むしろ新しい道を開いて多方面から同時に見られる能力をつけた方がよいように思う。
その為には保守的でありかつ革新的である必要がある。なぜかは分からないが、物事が前進する時には常に矛盾を抱えているように見える事が多い。そしてまた一見矛盾しているが、その根っこの本質は矛盾していない場合も多いのだろう。
寒いが暑い。眠くないが起きたくない。死にたいが生きたい。これらの事は普通に日常でもあるんじゃなかろうか?これらはまったく矛盾していない場合だってあると思う。
そもそも矛盾とは何だ? 『どんな物でも突き通す事のできる矛』と『どんな物も跳ね返す盾』を売っている商人がいて、とある賢者がその商人に『ではその矛でその盾をついてみよ!どうなる?』と聞いた所、商人は答える事ができなかったという話が元だ。嘘の話をしたから辻褄が合わなくなったという事であろう。
つまりは嘘をつかなければ、矛盾は生まれないという事ではないか? 物理現象に対しては間違った法則をあてがえば嘘をついた事になるだろうが、これが自分の気持ちなどであれば嘘をつかない限り矛盾は生まれないという事だ。
たとえば『朝パンしか食べていないので、まだ11時だがお腹がすいた。』という事に対して
『パンは腹持ちがよくないかどうか?』という実験をつづった文献やデータは意味がないという事だ。
空腹という感覚には個人差があり、いわゆる気持ちに左右されやすい。『朝パンしか食べていないから…』という言い分が正しいかどうかは、その本人の気持ち次第であるという事だ。
実際に不特定多数の実験を繰り返し、『一般的に朝パンしか食べていないと、おなかが空きやすい』というような事実が証明された時に、彼の意見は初めて万人に『間違えてないじゃん』と認められるのかもしれないが、それには全く意味がないと思う。それは彼の意見は彼の考えであるから一般的である必要がないからだ。一般的であろうが稀であろうが彼が嘘を言ったのではなければ、彼がそう感じたという事は事実だ。
『ソース』 『矛盾』…下らん言葉だ。 もっと自分の脳を使うべきだ。他人にすぐソース元を求めたがる人間は「自分で考える事が苦手な人間」であり、他人にすぐ「矛盾している!」とつっこむ人間は自分のモノサシでしか世間を量れないような「他人を理解する能力が低い人間」であると思う。
裁判官然り、前例は大事だが、やはり素晴らしい裁判官というのは自分の脳で判断しているように思う。教師然り、教科書は大事だし受験の為の技術は大事だが、教えるという行為はその教師の脳みそで行われるべきだ。よい教師というのは教える能力の高さよりはさておき人格者であると思う。
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