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詳細 2024年3月5日 09:05更新

【プロフィール】

ケン・グリフィー・ジュニア(Ken Griffey Jr., 1969年11月21日 - )は、アメリカメジャーリーグのプロ野球選手。シカゴ・ホワイトソックスに所属。本名 George Kenneth Griffey, Jr.。いたずらっ子のようなルックス、気さくな性格から愛称は、ジュニア、THE KIDなど。

ぴかぴか(新しい)アマチュア時代ぴかぴか(新しい)
1969年11月21日、ペンシルバニア州ドノラに生まれた。父親は1970年代にレッズでビッグレッドマシンの一員として活躍したケン・グリフィー・シニア。当時のニューヨークは治安が悪いこともあり、地元で育った。モーラー高校に進学し、野球とフットボールに励んだ。特に才能を発揮したのは野球の方で、1986年、1987年に所属リーグのプレイヤーオブザイヤーに輝いている。そして、1987年にはマリナーズに全米ドラフト1位で指名され入団。父のシニアはまた現役で、2世選手に対する風当たりは強く、人種差別を受けたため自殺を図ったこともあった[1]。

1Aビリンガムで54試合に出場して.313 14本塁打 40打点 13盗塁の好成績を残した。1988年には1Aサンバディーナに昇格して58試合に出場して.338 11本塁打 42打点 32盗塁の好成績を残し、シーズン終盤に2Aバーモンドに昇格した。1989年のマリナーズのスプリングトレーニングで出場26試合、打率.359、2本塁打を記録し、33安打、21打点、15試合連続安打は球団のスプリングトレーニング新記録しとなった[2]。開幕はメジャーリーグで迎えた[2]。

ぴかぴか(新しい)シアトル・マリナーズ時代ぴかぴか(新しい)
1989年4月3日のアスレチックス戦でデビュー。初打席で二塁打を記録し、4月23日から4月26日にかけて球団タイ記録となる5試合連続複数安打を記録した[2]。7月23日時点でメジャー新人選手3冠となる打率.287、13本塁打、45打点を記録していたが、7月25日から8月20日にかけて故障者リスト入りを経験した[2]。シーズンを通しての成績は、127試合に出場し、打率.264、16本塁打、61打点でグリフィーは新人王の投票でグレッグ・オルソン、トム・ゴードンに次ぐ3位に入った[3]。

1990年にはセンターの定位置を確保して155試合に出場し、初の3割20本塁打を記録するだけでなく、守備でもファインプレーを随所に見せて4月26日のヤンキース戦ではジェシー・バーフィールドの通算200号本塁打となるはずだった打球を、フェンスを登って阻止するというプレーもあった[4]。自身初のゴールドグラブ賞を1968年のジョニー・ベンチに次ぐ史上2番目の若さで受賞[4]。また、ホセ・カンセコに次ぐリーグ2番目となる2,159,700の票を集め、1955年のアル・ケーラインに次いで史上2番目の若さで初のオールスターに選ばれて5番センターで先発出場を果たした[4][5]。そして、この年の終盤父親のシニアがレッズからマリナーズへ移籍して、8月31日のロイヤルズ戦で史上初親子が同時にスタメンに名を連ねた[4]。更に9月14日には親子での2者連続本塁打も達成した[4]。この年の日米野球にも親子揃って選出され、来日している。

1991年には自己ベスト、リーグ4位の打率.327を記録し、7月23日には自身初となる満塁本塁打を放ち、9月30日のダブルヘッダー初戦で100打点をメジャー史上12番目の若さで達成した[6]。初のシルバースラッガー賞と2度目のゴールドグラブを受賞した。また、この年にシニアは引退。現役生活は19年だった。

1992年は6月8日のレンジャーズ戦の死球の影響で6月9日からDL入りしたが、6月25日にはメジャー復帰を果たした[7]。142試合に出場し、3年連続の3割20本塁打100打点を記録し、3度目のゴールドグラブを受賞。また、オールスターでは当時カブスに所属していたグレッグ・マダックスから本塁打を放つなど、3打数3安打でMVPを受賞している[7]。9月30日のブルワーズ戦で3ラン本塁打を放ち、球団史上初めて2年連続100打点を達成した[7]。

1993年は113得点、359塁打、45本塁打は球団シーズン記録となった[8]。6月15日のロイヤルズ戦で史上6番目の若さで通算100本塁打を達成し、7月には8試合連続本塁打のメジャータイ記録を達成した[8]。そして9月1日に球団史上初の40本塁打を達成し、[8]45本まで記録を伸ばしたが、本塁打王にはフアン・ゴンザレスに1本及ばなかった

1994年は4月に球団月間新記録となる20打点をマークし、5月31日までにミッキー・マントルの20本塁打(1956年)を上回る22本塁打を放ち、メジャー新記録となった[9]。5月23日に通算153本塁打を放ち、新人のだった時の目標である父の152本塁打を上回った[10][11]。6月12日には球団新記録となる通算161本塁打目を放ち、6月30日までにベーブ・ルースの30本塁打(1928年、1930年)を上回る32本塁打を放ち、メジャー新記録となった[9]。オールスターのファン投票では1977年にロッド・カルーが記録した4,292,740票を更新する史上最高の6,079,688票を集めた[9]。しかし、ストライキで8月12日限りでシーズン打ち切られてしまったが、40本塁打を記録して球団史上初の本塁打王となり、MVPの投票ではフランク・トーマスに次いで2位に入った[9]。

1995年5月26日、守備でフェンスに激突した際に左手首を痛めて全治3か月の大怪我をしたが、8月15日に復帰を果たし、その日に史上7番目の若さで通算1000本安打を達成した[12]。プレーオフには出場し6本塁打をマークするなど活躍したが、チームはリーグチャンピオンシップシリーズでインディアンスに敗退。また、この年は72試合の出場に終わったが、ゴールドグラブ賞を受賞している。

1996年5月21日史上7番目の若さで通算200本塁打を達成した[13]。6月19日に右手の有鈎骨を骨折し、約3週間の離脱を余儀なくされたが、それでも自己の持つ球団記録を更新する49本塁打を記録した[13]。

1997年4月にメジャー新記録の13本塁打を放ち、9月7日に史上15人目となるシーズン50本塁打を達成した[14]。打率.304 56本塁打 147打点を記録し、2度目の本塁打王、初の打点王、そして初のMVPを満票で受賞した。これは史上13人目の快挙である[14]。チームも地区優勝を果たした。

1998年4月13日に史上2番目の若さで300本塁打を[15]、9月25日に史上最年少で通算350本塁打を達成した[16]56本塁打を放ち2年連続となる本塁打王を獲得、20盗塁も記録したことでウィリー・メイズ、ブレイディ・アンダーソンに次ぐ史上3人目の50本塁打-20盗塁も達成する。さらに、3年連続140打点以上も記録。これはベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグに次ぐMLB史上3人目の快挙である[16]。しかし、ナリーグでマーク・マグワイアが70本、サミー・ソーサが66本と本塁打のシーズンを記録を更新したため注目されなかった[1]。

1999年はオールスターのホームランダービーで2年連続3度目の優勝を果たし、シーズンでも48本塁打を放ち3年連続4度目の本塁打王、足でも自己最多の24盗塁を記録。また10年連続となるゴールドグラブ、7度目のシルバースラッガー賞を獲得した。さらにMLBオールセンチュリー・チームにも現役で唯一選ばれた。

ぴかぴか(新しい)シンシナティ・レッズ時代ぴかぴか(新しい)
1999年オフ、家族が暮らすフロリダからはシアトルが遠いということを理由に、マリナーズが提示した8年1億3500万ドルの契約に首を縦に振らずトレードを志願[要出典]。トレード交渉は難航し、一時球団間ではメッツとのトレードが決まりかけたが、グリフィー自身が拒否[要出典]。年が明けてもトレード先が決まらず、結局マリナーズ残留かに思われたが、ファンから脅迫状が届いた事からメンタル的にマリナーズ残留は不可能とし、トレード交渉が再開[要出典]。2月、父親のかつて所属したレッズとの1対4のトレードが成立し、9年総額1億1650万ドルで契約した[17]。背番号はマリナーズ時代の24から父親が現役時代付けた30に変更した。レッズの地元シンシナティでは観客動員が2,061,222人から2,577,371人へ50万人以上増加した[18]。

2000年4月10日のロッキーズ戦で当時史上最年少30歳4か月での通算400本塁打を達成し、ナリーグでもオールスターゲームに選出された(プレーはしていない)[19]。9月中旬に足を痛め離脱した。打率.271 40本塁打 118打点という成績だった。2001年はスプリングトレーニングで足を痛め開幕から出遅れ、111試合の出場に終わった。デビュー年以来となるオールスターに出場できなかったが、8月に11本塁打を放ち量産した。翌2002年は4月8日から5月23日と6月25日から7月21日の2回故障者リスト入りをし、わずか70試合の出場に終わり、197打席で8本塁打と全盛期の姿とはほど遠かった。6月18日には通算2000本安打を達成している。

2003年は開幕直後に右肩を脱臼するなど、53試合の出場。5試合連続本塁打を放つなど長打力はやや回復したが、打率は.247とガタ落ちだった。ファンやマスコミの間でもグリフィー不要論が巻き起こり、一時はパドレスとのトレードが決まりかけた[要出典]。

2004年は開幕戦でカブスのグレッグ・マダックスから本塁打を放つ。4月は3本塁打に終わったが、5月に10本塁打を放ち、6月20日の父の日にカージナルス戦で史上20人目となる通算500本塁打を達成した。オールスターにも5年ぶりに選ばれ、w:Sports Illustrated紙の表紙を飾った。しかし、オールスター前に右足の腱を痛め、オールスターには出場できず。その後復帰した試合で腱が断裂、シーズンを棒に振り、83試合の出場で終わる。この年の手術でアスリートとしては前代未聞、右足に3本のボルトを入れることになった。

2005年は4月30日のブルワーズ戦まで本塁打はなかったが、それ以降は本塁打を12.03打席に1本のペースで量産。右足かかとを痛め9月4日を最後にシーズンを幕を下ろすまでに128試合で打率.301 35本塁打 92打点の好成績を残し、カムバック賞を受賞。オフには背番号を30からグリフィーの息子たちの数と同じ3に変更した。

WBCでは、アメリカの優勝こそ果たせなかったが、.524 3本塁打 10打点と大活躍し大会のベストナインに選ばれた。

2006年シーズン序盤、通算本塁打でミッキー・マントルを抜いたが、右太ももを痛め1か月離脱。復帰試合で逆転サヨナラ3ランを飾った。7月に深刻な不振を経験し、9月4日に右足人差し指を脱臼し、親指も負傷するが、ホームでの最終試合で代打逆転3ランホームランを飾り、通算本塁打でレジー・ジャクソンに並んだ。

2007年から、センターからライトへ転向した。6月22日のマリナーズ戦で、移籍以来実に8年ぶりに古巣の本拠地セーフコ・フィールドでプレー。グリフィーが打席に入るとシアトルのファンはスタンディング・オベーションで歓迎し、続くヒットにも大歓声、マリナーズの投手が牽制球を投じるとブーイングが起こるという有様だった。7月11日には通算587号本塁打を放ち、フランク・ロビンソンを抜き、通算本塁打で単独6位となった。

2008年5月31日に通算599本塁打を打った後ハンク・アーロンとウィリー・メイズから「野球を楽しんでもっともっと打ち続けなさい」と激励の電話をもらい、ナーバスになっていた気持ちが楽になり[10]、6月9日、マーリンズ戦で右越えに2ランを放ち、大リーグ史上6人目となる通算600本塁打を達成した。

2008年7月31日、トレード期限最終日にニック・マセット、ダニー・リチャーとの交換トレードでシカゴ・ホワイトソックスへ移籍した

2009年2月13日 マリナーズはホワイトソックスからフリーエージェント(FA)になっているケン・グリフィー外野手と1年契約で合意に近づいた。

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Web Site(英語関連サイト)
http://www.kgjonline.com/
http://www.mlb.com/NASApp/mlb/team/player.jsp?player_id=115135
http://en.wikipedia.org/wiki/Ken_Griffey,_Jr.
http://www.griffeyjr.com/
http://www.baseball-reference.com/g/griffke02.shtml

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Web Site(日本語関連Site)
http://mlb.yahoo.co.jp/team/player/?id=1846817
http://www.geocities.jp/hayase4388/introduction/griffey-jr.html
http://sportsnavi.yahoo.co.jp/baseball/mlb/05season/team/players/k_griffey.html
http://www.os.urban.ne.jp/home/hiro/griffey.html
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