努力の男!川相昌弘伝説
?投手からバントの名手へ
川相の入団当時を知る関係者の間では「川相はバントが下手だった」と振り返られているそうである。確かに川相は、高校では投手をやっており、プロで野手として活躍するまでにも長い時間がかかっている。新人の1983年には一軍出場なし。1984年に一軍へ登場してくるようになったときも、最初は守備のスペシャリストという位置づけであった。1984年から1988年までの安打数はたったの39。バントは16。いつ消えていってもおかしくない目立たぬ野手だったのだ。しかし、1989年、藤田元司監督が就任して、ついに川相の潜在能力は引き出されることになる。5月4日の阪神戦の1回に猪俣隆投手からバントを成功させたことをきっかけにしてレギュラーの座をつかむと、その年、32犠打を決める。川相は、年々、藤田政権にとって欠かせない選手となっていく。
?守備の名手
巨人のショートを長年守り続けた川相の守備は定評がある。元々、一軍に上がってきた頃は守備固めで起用されていたことからも分かるように、堅実でしかも守備範囲が広い。しかも、高校時代までは投手をやっていたため、肩も強い。それゆえ、6度ものゴールデングラブ賞に輝いている。川相は、練習で2年間使用したグラブしか試合では使用しないという。そこまで、手になじむまで使い込んでから本番というこだわりを持っているのである。
?世界新となる512犠打達成
2003年8月10日のヤクルト戦の5回裏、川相は、無死1・2塁の場面で代打として登場する。スコアは、3−6。川相は、館山昌平投手から狙い済ましたかのように三塁線にバントを転がし、走者を進めた。このバントで、川相は、大リーグのエディ・コリンズが達成した通算511犠打に並んだのだった。そして、10日後の8月20日。ついに職人が世界一の記録を塗り替える瞬間が訪れた。横浜戦の6回裏1死1塁で代打は川相。川相は、ドミンゴ投手から落ち着いて投手前にバントを決めた。世界新記録となる通算512犠打目である。実際、コリンズの記録は、犠飛も含まれているため、既に川相は、世界記録を達成している、と言われていたが、川相は、あくまで数字として残っている511超えにこだわりを持って挑戦し、そして超えた。試合後、原辰徳監督の粋な計らいによって、川相は、ナインから胴上げの祝福を受ける。この犠打世界新記録を破る勢いを持っている現役選手はおらず、おそらく不滅の記録になるだろうとさえ言われている。
−−−−−−−−−− キリトリ −−−−−−−−−−−
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