エイドリアン・スーティル(Adrian Sutil、1983年1月11日 - )は、ドイツミュンヘン出身のレーシングドライバー。F1ドライバー。血液型AB型。身長183cm、体重75kg。名前のスーティルの事を一部ではスティル、スティールと表記されることがある。
父は音楽家であり、スーティルはピアニストになる為の英才教育を受けていたが、14歳の時に今まで知らなかったゴーカートの存在を知る。そのエンジン音の虜となり、ピアニストへの道を中断しレーサーへの道へ進むことを決める。
2000年 ドイツカート選手権総合3位
2004年 F3参戦。総合15位
2005年 ユーロF3総合2位
2005-2006 A1グランプリにドイツチームとして3戦出場。(最高位12位2回・チーム総合15位)
2006年 MF1レーシングサードドライバー
全日本F3選手権シリーズチャンピオン
SUPER GTの鈴鹿1000kmレース
2006年12月にティアゴ・モンテイロに代わり2007年からF1に参戦
2007年9月30日に行われた日本グランプリでは9位フィニッシュだったが、8位フィニッシュのビタントニオ・リウッツィが黄旗区間で追い越しを行ったためにペナルティが課せられ、8位に繰り上がって入賞、F1での初ポイントを獲得した。またこれは、スパイカーF1にとっても初ポイントであった。
2008年はスパイカーを買収したフォース・インディアと契約。チームメイトはベテランのジャンカルロ・フィジケラに変わった。開幕からリタイアの連続で苦戦が続いている。
そんな中でも、第6戦モナコGPでは雨の中、非力なマシンで終盤まで4位を走行し才能の片鱗を見せた。しかし、後方からキミ・ライコネンに追突されリタイアに追い込まれた上に、レース後には黄旗が振られている区間で3台をオーバーテイクしたとして警告を受けた[1]。
2009年も引き続きフォース・インディアから参戦。相変わらずマシンの競争力は不足しており苦戦を強いられているが、雨の中でのレースとなった第3戦中国GPでは終盤に6位まで浮上し雨での強さを再び見せた。しかし、残り6周となった所でクラッシュし、入賞を逃した(17位完走扱い)。
イギリスGPではフリー走行で3位につけるなど好結果が期待されていたが、予選で赤旗中断となるほどの激しいクラッシュに見舞われた。しかし、決勝には無事出走している。
ドイツGPではQ1.Q2を余裕を持って勝ち上がり、Q3で自己最高の7番グリッドにつけた。驚きなのは、予選で8.9番手で終えたフェラーリの2台より多く燃料を積んでいたということだった。しかし決勝では1回目のピットストップまでに2位まで順位を上げ、一位のバリチェロの真後ろに着き、入賞どころか優勝の期待もあったが、ピットアウト後の1コーナーでキミ・ライコネンと接触し15位までポジションを落としそのままチェッカーを受けた。
イタリアGPでは、自己最高位となる予選2位を獲得した。更に決勝ではマシンの特性を活かして初ファステストラップを記録し、自己最高位の4位を獲得した。レースや予選で時折速さを見せるものの、他車を省みない危険なドライビングも目立つシーズンとなった。(シンガポールグランプリでスピンした直後のリカバーでハイドフェルドに衝突し、次戦の日本グランプリではシケインに並走状態で進入したコバライネンのラインを強引にふさぎ接触など)
2010年も引き続きフォース・インディアから参戦。VJM03は開幕戦から戦闘力を発揮し、コンスタントにポイントを獲得していった。 しかし、終盤戦に入ってテクニカル・ディレクターが離脱したこともあってかパフォーマンスは低下していきQ3進出もままらなくなった。結果、コンストラクターズランキングでウィリアムズに6位を奪われた。
2011年も引き続きフォース・インディアから参戦。チームメイトはルーキーのポール・ディ・レスタ。最終的にディ・レスタに15ポイント差をつける42ポイントを獲得しドライバーズランキング9位につけたが、シーズン終了後にニコ・ヒュルケンベルグと入れ替わる形でシートを失った。
2012年はシートは得られず1年間浪人することになった。
2013年はニコ・ヒュルケンベルグが移籍して空いた古巣フォース・インディアのシートを、ジュール・ビアンキと競った末に獲得しF1復帰を果たした。
ご参加ください。
※注:F1中継はCSで見られる方もいれば、地上波で見られる方もいますので、トピを立てる際はタイトル名にはご配慮ください。
(結果や連想してわかるようなタイトルはつけないようにお願いします)
ちなみに地上波で見られる方は、GP前にGPトピを見てしまわないようにご注意くださいね!
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エイドリアン、スーティル、フォースインディア、F1、ブリジストン、フィジケラ、