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百武源吾

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詳細 2023年6月24日 15:31更新

佐賀藩の足軽・百武庭蔵の五男として生まれた。海軍大将の兄・三郎は三男、陸軍中将の弟・晴吉は六男である。少年時代の源吾は農学を志していたが、海軍兵学校を目指していた兄(四男)幸治が志半ばで病死したことを機に、幸治の遺志を継いで海軍を目指すことにした。

佐賀中学、海城中学を経て、明治35年(1902年)12月、海軍兵学校30期を首席で卒業。30期で唯一、大将まで昇進した。

遠洋航海を終えて明治36年(1903年)9月より三笠乗組に任じられ、主砲着弾観測員を勤めた。翌年3月に三笠砲術長に加藤寛治少佐が着任し、8月10日の黄海海戦でヴィルヘルム・ウィトゲフト提督を爆死させた「運命の着弾」に貢献した。加藤の采配に感動した百武だったが、後に私的な諍いから加藤不信に転じて互いの命運を左右することになる。

黄海海戦後の10月に韓崎丸乗組、12月に富士乗組に転じ、日本海海戦は富士の乗組員として参戦した。戦後は千代田・香取・富士の分隊長、磐城の航海長を務めて着実に技量を上げていった。明治40年(1907年)に砲術学校特修科、明治41年(1908年)には海軍大学校乙種、明治44年(1911年)には大学校甲種と、大尉時代は勤務の傍ら学校教育を頻繁に受け、教養も高めている。

大正2年(1913年)に初めて赤煉瓦勤務となり、軍令部参謀・教育本部第2部員を兼任した。大正4年(1915年)から2年間、アメリカに駐在する。ここでアメリカの国情を詳細にわたって研究し、日露戦争後にアメリカを仮想敵と定めた海軍の方針が無謀なものであることを悟り、対米協調路線を推進する決意を固めた。しかし、帰国して海軍大学校教官に任じられ、2年間にわたって学生に対米協調の重要性を説き続けたが、血気盛んな学生は「百武教官は恐米論者」と反発を強め、受け入れられなかった。

大佐に昇進した百武は、大正10年(1921年)に多摩艦長に任じられ、初めて艦長職に就いた。イギリス皇太子の訪問に際し、御召艦レナウンに同伴を命じられたり、下関に停泊中、運炭船が多摩に激突沈没した事故の責任を問われて軍法会議で無罪を勝ち取ったり、多摩艦長時代は百武にとって激動の時期であった。感激のあまり、任期中に生まれた末娘の七女に「多摩子」と命名した。だが一方、直属の上司である第3戦隊司令官に、実の兄である三郎少将が着任して窮屈な思いもしている。以後、兄弟が同じ指揮系統に並ばないよう人事上の配慮が強化されることになる。

春日艦長・教育局第1課長・軍令部参謀を経て、大正14年(1925年)に国連軍縮会議海軍代表に任じられ、交渉を通じてさらに対外協調路線の重要性を説くようになった。その結果、帰国後に海軍大学校教頭に就任し、以前の教官時代以上に協調路線を熱く学生に説くようになった。

しかし一方で、軍令部の上官や陸軍に対しては、協調どころか反発することが多かった。昭和2年(1927年)に軍令部第1班長に就任し、百武の偏屈さが身を滅ぼす前兆を多数生み出すことになる。

前述のとおり、新任時代に加藤寛治の技量に感服したものの、再会した時には着弾観測員だった自分のことを忘れていたことに失望し、幕僚が同席した酒の席で加藤の薄情さを面罵したことがあった。このために軍令部次長の座を簡単に追われ、軍令部総長就任の芽も奪われたとする見方がある。また陸軍に対しても、済南出兵に際して徹底介入を目指す荒木貞夫参謀本部第1部長に対して即時撤退を進言し、煙たがられている。満州事変の際に関東軍を視察訪問した百武に対し、本庄繁司令官が会見を拒否した原因と言われる。

昭和4年(1929年)に第5戦隊司令官として一時軍令部を離れるが、昭和6年(1931年)10月に統帥権干犯問題処理のために末次信正軍令部次長を更迭することになったため、百武が次長に就任した。既に軍令部長は因縁深い加藤寛治から谷口尚真大将に交代していたが、谷口自身も百武に劣らず偏屈で知られており、軍令部内では不評であった。この間は満州事変に対応すべく、大陸の駐留部隊の増強と関東軍の動向を把握する必要性があったが、軍縮条約遵守を最大の懸案事項とする谷口・百武の下では事態が解決しないと軍令部員は考え、結局両名とも翌年2月に更迭された。

以後の百武は、昭和7年(1932年)2月海軍大学校長、10月練習艦隊司令官、昭和8年(1933年)9月舞鶴要港部司令官、昭和9年(1934年)11月第3艦隊司令長官、昭和10年(1935年)12月佐世保鎮守府司令長官、昭和11年(1936年)3月艦政本部長と、できるだけ海軍省・軍令部と関わらない職を転々とした。練習艦隊司令官としてアメリカを歴訪した際には親米派の提督として各地で大歓迎を受けた。一方で地方長官としては前例にとらわれず奔放に振舞い、幕僚を困惑させることも多かった。

昭和11年(1936年)12月より翌年4月まで横須賀鎮守府司令長官を勤め、この間に大将に昇進して百武の現場生活は終わった。以後は昭和17年(1942年)7月まで軍事参議官として現役に留まった。この時にも陸海軍参議官の中で開戦にただ一人反対し、最後まで対米協調に邁進した。永野修身軍令部総長が体調を崩し、引退をほのめかした際に、百武が序列から見て総長に任じられる可能性が高いことが問題となった。避戦派の百武が総長となることを阻止する水面下の工作が行われて永野続投が強行されたうえ、戦時下にも関わらず、百武を予備役に編入して海軍から追放することになった。

海軍を追われた百武は信濃川沿いの村に隠居して悠々自適の生活をしていたが、九州帝国大学工学部が新総長を学外の第一人者から招聘する意向を固め、海軍経験者の中から百武を候補に指名した。学習院長経験者である野村吉三郎大将から説得され、百武は学長選挙に立候補し、昭和20年(1945年)3月から11月まで学長を勤めた。教官を敬わない学生の風紀を改めるべく海軍式の教育を普及させた。また、陸軍省と文部省が医学生の徴兵を猶予する協定を結んでいたにもかかわらず、医学生も根こそぎ動員していた西部軍に対して直談判し、徴兵された医学生を大学に復帰させた。

九州帝国大学総長を辞職したのちは、再び悠々自適の生活に戻った。昭和51年(1976年)に死去したが、兵学校30期生186名の最後を飾る大往生だった。

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