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松方正義

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詳細 2015年9月18日 18:20更新

松方デフレの再来。


松方 正義(まつかた まさよし、天保6年2月25日(1835年3月23日) - 大正13年(1924年)7月2日)は日本の明治時代の政治家。通称は助左衛門。近代日本を代表する財政家であり、1880年に内務卿、1881年に大蔵卿を歴任、翌年1882年に日本銀行を設立。第4代、第6代内閣総理大臣。ほか大蔵大臣、内大臣などを歴任した。元老大勲位公爵。

薩摩藩士・松方正恭の四男として生まれる。幼名は金次郎。示現流を学ぶ。勘定所出物問合方へ出仕、のち大番頭座書役となり、このとき大久保利通に認められた。島津久光の側近として生麦事件、寺田屋事件に関係した。松方家は下級武士であったが久光の従者となったことで次第に立身した。慶応2年(1866年)郡奉行、軍艦役、慶応3年(1867年)軍賦役兼勤となり、長崎と鹿児島を往復して、軍艦の買い付けなどに当たった。

維新政府では長崎裁判所参議などを経た後、租税権領に就任、以降は大蔵省官僚として財政畑を歩んだ。内務卿大久保の下では地租改正にあたる。だが、財政方針を巡って大蔵卿大隈重信と対立する。松方は大隈が進める外債による政府発行紙幣の整理に真っ向から反対したのである。その結果、伊藤博文の配慮によって内務卿に転出する形で大蔵省を去った。だが、1881年明治14年の政変によって大隈が退陣すると、参議兼大蔵卿として復帰する。松方は後に松方財政と呼ばれる政府発行紙幣の整理を中心とする金融政策の実現に取り組み、日本銀行の設立を経て、政府発行紙幣の全廃と兌換紙幣である日本銀行券の発行を行った。この政策によって財政収支は大幅に改善されたものの、深刻なデフレーションを招いたために「松方デフレ」と呼ばれて、世論の反感を買った。

年齢、キャリアからすれば薩摩閥の中核となるべき人物であったが、財政面以外での政治手腕には欠けるところがあった(2度の内閣がともに些細な理由であっけなく倒れた)ために軽んじられており、ために派閥をまとめることが出来なかったといわれる。

ただし、明治天皇からの信頼は絶大であり、松方財政においても、閣僚や元勲の反対の中、天皇から財政委任の詔勅をいただいて、財政をすすめている。日露戦争の開戦に当たっては、消極派の伊藤・井上らに反論し、積極的に開戦を主張、財政上の懸念は解決できると豪語し、元老会議を主導した。この功績が明治天皇から認められ、戦後異例の大勲位受章となった。伊藤・山縣有朋らの死後は元老を主導する立場となり加藤友三郎内閣の成立などに貢献した。

非常に子沢山(13男11女の24人という)で、或る日、明治天皇から何人子供がいるのかと尋ねられたが咄嗟に思い出せず、「後日調査の上、御報告申し上げます」と奏上したという。次男は外交官の松方正作、三男は実業家の松方幸次郎、十三男は松方三郎(出生時の戸籍は義三郎。のち戸籍も改名。三代目当主)。孫にエドウィン・O・ライシャワーの妻であるハル・松方・ライシャワー、国際文化会館の「宿屋のオヤジ」こと松本重治がいる。正作の妻・繁子は三菱財閥の2代目総帥・岩崎弥之助の長女なので、松方家は三菱の創業者一族・岩崎家と姻戚関係を結んだといえる。



出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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