かつて、全日本プロレスの幾多の激戦を裁いてまいりました、プロレス界の人間国宝・ジョー樋口氏をひたすら称え、
ねぎらい、敬意を表する敬老精神溢れるコミュです。
※プロフィール
■本名:樋口 寛治
■生年月日:1929.1.18
■出身地:神奈川県横浜市
■サイズ:173cm 90kg B型
■レフェリーデビュー:
1956年1月 全日本プロレス協会、大阪大会のリングにて
■経歴:
(レスラー時代)
全日本プロレス協会→日本プロレス
(レフェリー時代)
全日本プロレス協会→日本プロレス→全日本プロレス
■メモ:
少年時代から柔道の道に進み、終戦後は進駐軍に柔道を指導。
1954年よりプロレスに転向、山口利夫らが立ち上げた全日本プロレス協会で活動。その後、吉村道明の誘いで日本プロレスに移籍するも1960年に引退。
レスラー引退後、一旦プロレスから離れるが、1963年から進駐軍に関わっていたときに養った英語力を生かし、外国人係(外国人選手の世話役)兼通訳として日本プロレスに復帰。1965年より当時のメインレフェリーの沖識名の代打としてレフェリーも兼務。以来、長きに渡りレフェリー人生を歩む事になる。
1972年、同職としてジャイアント馬場が設立した全日本プロレスに参加。以降、ジャイアント馬場の試合に欠かせないレフェリーとして一躍有名に。よく足を使い、試合がストップした状態でも観客を飽きさせない彼独特のレフェリングは、後の和田京平や西永秀一(現ノア)らにも大きな影響を与えた。特に試合がグラウンド状態になった際には「ワッチャギブアップ(Watch out give-up)」と意味不明な言葉を発したり、試合中に選手の乱闘に巻き込まれて失神したり、悪役レスラーの反則に気付かないのもお馴染みであった。とりわけ1980年代前半には、乱闘に巻き込まれて失神して決着になだれこむ「ジョー樋口失神ギミック」がビッグマッチを中心に多発したが、1980年代後半以降からは体力の衰えた関係で失神は無くなった。
しかし、レフェリングは厳格であり、2003年の力道山追悼興行で特別レフェリーを務めた際には、カウントしないことがほぼ不文律となっている小橋建太のマシンガンチョップに対して反則カウントを取った。また、カウントが遅いこともよく取り沙汰されたが、ストップウォッチでジョーのカウントを計測したところ、実時間の3秒とほぼ一致していたという話もあった。
1990年代以降は高齢の為、チーフレフェリーの座を和田に譲り、1997年にレフェリーを引退し外国人係に専念したが1999年退団。
2000年、仲田龍リングアナウンサーの誘いで三沢光晴が設立したプロレスリング・ノアの監査役に。翌2001年に創設されたノアのフラッグシップ・タイトルであるGHCの管理委員長にそれぞれ就任。2010年9月まで就きました。
2010年11月8日、肺腺ガンの為、永眠。
※2008.10.1付にて、管理人交代しました。
(初 代) ‐
(2代目)今野一樹@BATT総帥
(管理人挨拶)
管理人の今野一樹でございます。
かつて全日本プロレスにて幾多の激戦を裁き、現在はGHC(グローバル・オナード・クラウン)タイトル管理委員長、プロレスリング・ノア監査役を務める元レフェリー・ジョー樋口の更なるご活躍を、このコミュを通じて応援していきたい所存であります。
全国のジョー樋口LOVEを持つ垣根を越えた皆様方。どうぞ、宜しくお願いします。