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2PAC

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詳細 2024年3月29日 21:26更新

祝500人。
はじめまして。あのnas、Biggie、Jay-Zをもボロクソにこき下ろしている(『Makaveli: The 7day Theory』)天才ラッパー Tupac Shakurのコミュです。

*コミュのルールは誰かをディスる以外なんでもありなんでイベントの告知だろうがPVの宣伝だろうが好きにやって下さい*


2PACを知ってる人も知らない人もまずは彼のクラシックを聞きながらHISTORYをどうぞ。
Hit Em Up
http://www.youtube.com/watch?v=N4HjsZqOaQ0

ALL EYEZ ON ME
http://www.youtube.com/watch?v=W6S7dAsIzIU&feature=related

How Do U Want It
http://www.youtube.com/watch?v=nlvS_Uk5yJM&feature=related

Temptations
http://www.youtube.com/watch?v=5f1wNnjpCII&feature=related

Trapped
http://www.youtube.com/watch?v=VCEmTaWSPTk&feature=related

Runnin
http://www.youtube.com/watch?v=2gBa88HYV94&feature=related

Until The End Of Time
http://www.youtube.com/watch?v=a7JuArhpTB8&feature=related

change
http://www.youtube.com/watch?v=Fe38MLJ3Vb8

Dear mama
http://www.youtube.com/watch?v=JNcloTmvTeA

I get around
http://www.youtube.com/watch?v=RnDR8OngS1U

Life goes on
http://www.youtube.com/watch?v=cqvCZRHzqLI

California Love-Feat. Dr Dre
http://www.youtube.com/watch?v=FWOsbGP5Ox4

baby don't cry
http://www.youtube.com/watch?v=aDr094GbbWA


ブラック・パンサー党員の母親の下に生まれ、貧困のため親戚緑者を頼って辿り着いた西海岸ベイエリアで「デジタルアンダーグラウンド」に加入して足場を築く。
91年ソロとなった当初は政治的な作品を発表していたが、人々の注目を集められなかったため方針を変えサグに転身。リアルであるために実生活とリリックの同一化を辞さず、それによって絶大な支持を得たものの、結局命取りになってしまう。

DIGITAL UNDERGROUND時代
 1971年6月16日、NYのハーレムで2パックは生まれた。本名のトゥパック・アマル・シャクールは、16世紀最後のインカ皇帝の名から取られたもの。
 彼の母親=アフェニはブラック・パンサーのメンバーで、200以上にものぼる罪状で69年に逮捕されたが、71年に免罪判決を受けた後に彼を産んでいる。
 その後、彼ら兄妹と母親はハーレムやブロンクスのプロジェクト(=低所得者居住地域)に移り住む。この頃から彼は自分の父母(ちなみに実の父は未だ判らないそう)や周りの者が、クラックに手を染めている光景を“日常の普通の出来事”と受けとめるようになっていた。
 彼はそんな自分の周りの事、ストリートの出来事を早くから“リリック”として綴っていた。その才能、表現力に気づいたからか、母は彼をハーレムの劇団“127 STREET ENSENBLE”に入れる。そして彼は12歳で殿堂アポロ・シアターのステージに立つ事になる。その後、家族はボルチモアへと引っ越すが、彼は新しい高校でも演劇を学ぶ。
 だが、ここで彼にとっての大きな転機が訪れる。同じく演劇を志していた学友が事もあろうに拳銃の暴発事故で死んでしまったのだ。彼はその身近な、しかも年若き者の死を見て、自分は世間に現実を伝えるラッパーになる、と心密かに決めた。
 一度そうと決めたら行動は早い。彼は高校を即中退し、単身ベイエリアへと渡りドラッグ・ディーラー等で日銭を稼ぎながら、“MCニューヨーク”というネームで活動を始める。ホームレス生活を続けながら、様々な金になる悪事をいとわず行い生き延び、その生き様をネタにしたライムを書いた。
 こうして地元で少しは知られる存在となった彼に今度は願ってもないチャンスが訪れた。既に人気の階段をかけ昇っていたデジタル・アンダーグラウンド(DU)が、彼らの行ったツアー・メンバーのオーディションに顔を出した2パックに目を付けたのだ。
 その場で認められた彼は90年にDUに正式加入し、ライヴ・ツアーで日本の地も踏んだ。こうして1991年1月に、彼はラッパーとしてDUの「Same Song」でレコード・デビューを果たす。同曲が収録された6曲入りミニ・アルバム[THIS IS AN E.P. RELEASE]は6週間でゴールド・ディスクを獲得する大ヒット作となった。

STRICTLY 4 MY N.I.G.G.A.Z.
 続く93年に彼は、ラッパー、アクターだけでなく、“問題児”としても更にその名を広めた。
 まずは同年2月にアイス・キューブ、アイスTやノーティ・バイ・ネイチャーのトレッチらが参加したソロ第2作[STRICTLY 4 MY N.I.G.G.A.Z...]がプラチナ級の大ヒットとなり、以後の“泣きの入ったメロウなトラックと、サグ・ライフ語り”という2パック・スタイルを確立した「I Get Around」と、当初はそのB面曲だった「Keep Ya Head Up」、後にサグ・ライフを組閣する実兄モープリームとの「Papa'z Song」を連続チャート・インさせる。
 アクターとしては、[ボーイズ・イン・ザ・フッド]を撮ったジョン・シングルトン監督の最新作にして、ジャネット・ジャクソンの映画初主演作として話題を呼んだ[ポエティック・ジャスティス]に、そのジャネットの相手役に選ばれるまでに。
 その反面、ゴシップ欄を賑わす事件も続出した。
 まず3月にはリムジンの中で彼がウィードをキメたことを諫しめた運転手と喧嘩となり、逮捕(告訴は後に取り下げ)。映画[ポケットいっぱいの涙/MENACE TO SOCIETY]から彼をおろした監督アラン・ヒューズに暴行をはたらき15日間の禁固。 4月にはミシガンで自分のスタイルをパクったとするラッパーをバットで殴打し10日間の禁固。10月にはアトランタで非番の警官2人を狙撃し、11月にはNYのホテルでファンの女性に“性的強要”をした、という容疑で起訴されている。
 こうした事件を通じて彼の“悪名”は益々知れ渡り、結果としてそれは“ギャングスタ・ライフを地でゆく危険な男”として人気を上げてゆくことになるのである。皮肉なことであるが・・・。


THUG LIFE
 結局彼は、その度重なる不祥事がもとで活動の幅を狭めざるを得ない身柄となったが、それでも彼の名前を聞かない日がなかった、と言っても過言ではなかったのが、この94年である。
 その幾多の事件のせいでジョン・シングルトンの次作映画[ハイヤー・ラーニング]の主役こそは降板させられたが、[ビート・オブ・ダンク/ABOVE THE RIM]は無事公開。
 サグ・ライフ名義で録った新曲「Pour Out A Little Liquor」をフィーチャーしたサントラもウォーレンG&ネイト・ドッグの「Regulate」等のヒットを連発し、200万枚ものセールスを記録する。実際、同年には彼のソロ名義作は陽の目を見ず、唯一のアルバムとなったのが、サグ・ライフの[VOLUME 1]である。
 その他、彼は様々なアーティストの作品に精力的にゲスト参加した。彼は自分を、自分の力を必要とする所には即、馳せ参じた。時にそれが“2パックという名前”だけが目当てだとわかっていた場合も、彼は“金のために”と割り切って東西奔走した。
 その性癖が悪かったのかどうかは判らないが、同年11月30日にロンGのミックス・テープ用のフリー・スタイルを録った後、今度はリトル・ショーンのレコーディングに参加するよう呼びつけられ、到着したタイムズ・スクエアのスタジオの外で、彼は何者かによって5発もの銃弾を浴びせられる。そのうちの1発は頭部もかすめたが、幸いにして一命を取り留めた。
 しかし、彼はこの事件をその時スタジオにいたアンドレ・ハレル、ショーン・パフィ・コムズ、ノトーリアスBIGらの仕業じゃないか、と勘繰るようになる。
 特にサグ・ライフに当初は在籍していたとされているBIG=ビギー・スモールズに対する憤りは凄まじく、「アイツはオレのプレイヤー語り/スタイルを真似てるだけだ」とイキまいた。しかしながら、この場に居合わせた関係者全員は犯人との関係も一様に否認。被害者2パックは重傷ながらも、わずか3時間で病院を強引に退院し、その事件の翌日に車椅子姿で例の“レイプ事件”のために法廷に現れ、皆を驚かせた。


ME AGAINST THE WORLD
 95年2月、遂に彼に審判が下された。罪状は先の通り。刑期は4年6ヶ月。予想していた事とはいえ、重い判決だった。こうして彼は拘置所だけでなく、刑務所に入ることとなった。
 その間に、3作目となる[ME AGAINST THE WORLD]は彼にとって初のナンバー1ヒット作となる。同作はショックGが1曲のみプロデュースでDU色は当然全く見られない上、前2作で大きく関わったライブ・スクワッドのストレッチは参加せず、代わりにイージー・モー・ビーやソウルショック&カーリン等との新鮮な組み合わせが見られた文字通りの意欲作であった。
 グラミー賞にノミネートされた「Dear Mama」や「So Many Tears」「Temptations」も続けざまにチャートを駆け昇った。
 [俺対世界]と名付けられた、その2パックならではの世界は常に(黒人を制圧せんとする)世界と彼との闘いの記録の集大成、と高い評価を受け、その“現実の彼の姿”がオーバー・ラップして見える哀愁漂う、嘆きのサグ・ライフ語りは多くの人を魅きつけたのだった。
 その頃彼は、ライカーズ・アイランドの鉄格子の中で、ニコロ・マキャベリ(15世紀イタリアの外交/政治家)の[君主論]などの書物を読み耽り、マリファナも女も銃もないその場所でサグ・ライフを棄て更生することを決意。また「ラップする事にあまりスリルを感じなくなった/架空のキャラクターを演じ続けなければならないことに疲れた・・・」との発言も・・・。
 しかしながら、結局彼は、遠いLAから何度も面会に訪れたデス・ロウ・レコードのオーナー=マリオン・シュグ・ナイトの熱意に打たれ、デス・ロウ入りを決める。結局シュグが140万ドルもの保釈金を用立て、彼は晴れて服役9ヶ月にして出所し約束通りデス・ロウとサインする事となる。
 こうして、デス・ロウからの第1弾となる[ALL EYEZ ON ME]の制作はスタートする。2パックはまたしてもサグ・ライフを唄うこととなった。


ALL EYEZ ON ME
 96年2月、遂に2パック、デス・ロウからの第1弾となる全27曲、ラップ初のCD2枚組、アナログにして実に4枚組の大作[ALL EYEZ ON ME]をリリースする。
 プロデュースのドクター・ドレイを始めとするスヌープ・ドギー・ドッグやドッグ・パウンドらレーベル・メイト、メソッドマンにレッドマン、K-Ci & JoJo、ジョージ・クリントン、ロジャーという、かつてない程豪華なメンツに包まれて完成をみた同作は、発表と同時にポップ・チャートでナンバー1を記録する。
 また、映画[マッドマックス3]を模した様な先行シングル「California Love」のヴィデオ・クリップもMTVで狂ったようにオン・エアされ、2パックの異常人気は更に加速がついた。続いて彼はスヌープとの共演曲「2 Of Amerikaz Most Wanted」のヴィデオを自ら監督し、将来的にスヌープと2人で映画を撮りたい、という野望も明らかにする。
 この間、デス・ロウはドクター・ドレイがシュグとの確執により同レーベルを追われるなどのお家騒動はあったが、2パック個人はいたって快調。オクラ入りになっていた映画[ハードブレット〜仁義なき銃弾](監督ジュリアン・テンプル、主演ミッキー・ローク)が一部で公開され、[グリッドロック][ギャングシティ/GANG RELATED]の撮影も順調に進んでいた。
 しかし、2パックも直接的に、しかも大いに関わっているデス・ロウVSバッド・ボーイを中心とした東西ラップ戦争は激化の一途を辿るのであった。
 シュグ・ナイトは2パック襲撃事件を含め、昨年9月アトランタで行われたジャーメイン・デュプリのバースディ・パーティーのあと、自分の取り巻きが殺された事や、11月にクィーンズでストレッチが殺された事もバッド・ボーイの仕業と断定し、以後彼らは雑誌面等でも事ある毎に小競り合いを繰り広げてきた。(96年3月の“ソウル・トレイン・アワード”でも両軍団は鉢合わせとなり騒動に。)
 そしてその燃え盛る炎に更に油を注いだのは他ならぬ2パック本人であった。
 彼は先のスヌープとのヴィデオでさんざんバッドボーイ勢をコキ降ろした後に、続くシングル「How Do U Want It」のカップリング曲「Hit 'em Up」では、ジュニア・マフィア&ノトーリアスBIGのヒット曲「Gettin' Money」を意図的にチープにしたトラック上に、パフィ、ビギー他を名指しで“Fuck You!”と吐き捨てた。
 この問題は、結局バッド・ボーイ側から[VIBE]誌に“我々は大陸によって分け隔てられているだけであって、決していがみ合っていないし、これからもいがみ合うべきではない”という意のコメントが寄せられたことにより終止符が打たれたように見えたのだが・・・。


PART FOUR
MAKAVELI - R U STILL DOWN?

MAKAVELI
 2パックは尊敬してやまないマキャベリから名を取り、“MAKAVELI”として最新アルバムの録音を進めていた。
 その一方、婚約を一旦解消していたキダダ・ジョーンズには、もうあの狂った世界=サグ・ライフには戻らない、などと漏らし、以前よりは少しおとなしく暮らしていたようだった。
 しかし、9月7日に彼は友人ボクサー=マイク・タイソンのファイトを観戦するために、ラスヴェガスを訪れるが、この地が奇しくも彼の最期の地、となる。
 彼とその一行は観戦後に、シュグ所有のクラブで行われるタイソンの祝勝会に駆けつける筈だった。だが、その道すがら、彼の乗っていたシュグがハンドルを握るBMW750は、突如として横付けしてきた白いキャデラックの車窓からの銃撃により蜂の巣に。シュグは軽傷で済むが、助手席に座っていた2パックは4発を肺などに被弾し、ユニヴァーシティ・メディカル・センターに担ぎ込まれる。
 この事件がギャング間の抗争か(シュグは古くからクリップスとLAの縄張りを二分するブラッズと関係を持っていた)、加熱するヒップホップ東西戦争の煽りか、依然として判らなかったが病院はギャングからの次なる襲撃を恐れ、セキュリティ・サービスを徹底強化する。
 案の定入院3日目には2パックの仲間連中と警察が小競り合いとなり逮捕者が出る始末。マスコミは、この一連の事件を大々的に取り上げ続け、喧噪は続いた。しかし、外の騒ぎをよそに2パックはその不死身とまでいわれた肉体を手放すより仕方ない状態に陥っていた。特に呼吸器系のダメージがひどく、被弾した右肺も摘出された。
 そして担当医師による「助かる見込みは20%しかない」という白旗宣言に近いコメントが出された翌9月13日午後4時3分、彼は呼吸器官と心肺機能の停止により、25歳というあまりに短く、しかし激しすぎた生涯に幕を下ろしたのであった。


R U STILL DOWN?
 彼の死後、母親=アフェニが活動を開始した。
 2パックがデス・ロウ所属以前に発表したアルバム4枚、そしてその数200は下らないといわれる未発表曲の権利を取得し、2パックの本名であるトゥパック・アマル・シャクールのミドル・ネーム「アマル」をとって、「AMARU RECORDS」というレーベルを設立したのである。
 未発表曲集第1弾[R U Still Down? (Remember Me)]が97年11月25日に発売され、ポップ・チャート初登場2位、R&Bチャートでは2週目にして第1位に輝くという未発表曲集としては記録破りな金字塔的成績を打ち立てたこの作品から「I Wonder If Heaven Got A Ghetto」「Do For Love」というスマッシュ・ヒットもうまれた。
 続いて98年末には[GREATEST HITS]がリリースされ、R&Bチャートで初登場ナンバー1の快挙を成し遂げ、死後も衰えることを知らない人気の凄まじさを物語った。さらに、シングル・カットされた未発表曲「Changes」は世界中のチャートの上位にランク・インし、ここ日本のFM局でも毎日のようにオン・エアされて新たなファンも獲得した。
 2パックは死後もなお、伝説として生き続けているのである。

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2006年4月4日

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