当コミュニティーは新潟県新発田市にあった
歩兵第16連隊を通し、
戦争史を研究するものとします。
安易にナショナリズム(国粋主義や愛国心)を
煽るものではありません。
新発田から徴兵された一兵卒の子孫として、
関わった者として、
地域社会の一員として、
戦争を考えていきたいと思います。
越佐健児(えっさこんでい)
新潟県民の兵士達
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新潟県新発田市に所在した歩兵連隊。
日清戦争から太平洋戦争に至るまで、
激戦には必ず参戦したと言われ、
軍功の大きかった反面戦病死者の数も多かった。
大変に郷土愛の強い部隊であったためか、
いわゆる古兵による私的制裁が皆無であったといわれている。
(伊藤桂一・兵隊たちの陸軍史 昭和42年 番町書房より)
wikipedia より抜粋
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新発田は明治4年(18781年)の廃藩置県後は
日本陸軍の軍都として栄え、
歩兵第十六連隊 を始めとし、
歩兵第三十連隊(五泉市村松に移駐)
歩兵第五八連隊
歩兵第百十六連隊
歩兵第百五二連隊
歩兵第百五八連隊
歩兵二一五連隊
が編成された。
これらの部隊は、地元下越の越佐健児の誇りを旨に
各地で戦い、そして多くは護国の礎となり、
万を越える将兵が生きて再び帰る事は無かった。
( 戦跡の歩き方 Copyright(C)悠久の沙羅双樹 Fc2.comより)
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明治新政府始まって以来の「皇民の軍隊」として
外征して勝利したことは、国民にとっては
大きな自信となり歓喜に沸き返っていた。
然しその一方では、一片の徴兵令状により異国の地で
戰病死した英霊の遺族は、深い悲しみを味わうことになる。
徴兵の多くは貧しい農村の壮丁で、
一家の働き手を失ったことは国の為とはいえ、
逝く者、残された者、そしてその方々を見送った町民の多くも
一様に悲しみの心を共有することとなった。
その悲しみこそ当時の新発田人の本当の心であった。
(「続、越佐健児の石碑(いしぶみ)」より抜粋)