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大久保長安

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詳細 2018年3月21日 18:16更新

大久保石見守長安(おおくぼいわみのかみながやす(ちょうあん))…戦国時代の武将。
武田家、徳川家の家臣。後に江戸幕府勘定奉行や老中を務めた。

天文14(1545)年に猿楽師の大蔵太夫十郎信安・次男として誕生。
祖父は春日大社で奉仕する猿楽(現能)金春流の猿楽師で父・信安の時代に大和国から播磨国大蔵に流れ大蔵流を創始し、この頃に誕生したのが長安。

父・信安は猿楽師として甲斐国に流れ武田信玄公お抱えの猿楽師として仕えた。長安は信玄公に見出され猿楽師では無く家臣として取立てられ譜代家老・土屋昌続の与力に任じられた。この時に姓を大蔵から土屋に改称した。
長安は蔵前衆として取立てられ武田領国における黒川金山等の鉱山開発や税務等に従事した。

信玄公没後は勝頼公に仕えた。天正3(1575)年の長篠の戦いでは兄の新之丞や寄親の土屋昌続は出陣して討死したが長安は出陣していない。
天正10(1582)年、織田信長公・徳川家康公連合軍の侵攻(甲州征伐)により甲斐武田家は滅亡した。
但し一説では勝頼公から疎まれたた為に武田氏を自ら離れて猿楽師に戻り三河国に移り住んでいたとも言われている。

甲斐武田家が滅んだ後、長安は家康公の家臣として仕えた。家康公が甲州征伐の時に逗留する為の仮館を長安が建設したが家康公が、その館を見て長安の作事の才能を見抜き仕官を許している。
長安は大久保忠隣の与力に任じられ、その庇護を受ける事となる。それに伴い姓を大久保に改称。天正10(1582)年6月に本能寺の変で信長公が死去し甲斐国が家康公の領地となるが当時の甲斐国は武田家滅亡後の混乱から乱れていた為に家康公は本多正信と伊奈忠次を所務方に任じ甲斐国の内政再建を命じた。

但し実際に所務方として再建を行なったのは長安であるとされている。長安は釜無川や笛吹川の堤防復旧や新田開発、金山採掘等に尽力し、僅か数年で甲斐国の内政を再建したと言われている。

天正18(1590)年の小田原征伐後、家康公は関東に移る事になる。
この時、長安は伊奈忠次や青山忠成、彦坂元正らと共に奉行に任じられ家康公が関東に入った後の土地台帳の作成を実施した。これは家康公が後に関東で家臣団に所領を分配する時に大いに役立ったと言われている。

関東250万石の内、100万石は家康公の直轄領となるが、この時に長安は元正、忠次と共に関東代官頭として家康公直轄領の事務差配の一切を任された。
天正19(1591)年に家康公から武蔵国八王子に8千石の所領を付与。
実質は以前に支配していた北条氏照公の旧領地をそのまま与えられたので実際は9万石を与えられた。長安は八王子宿(現・東京都八王子市)に陣屋を置き宿場の建設を進め浅川の氾濫を防ぐ為の土手を築いき石見土手と呼ばれている。

長安は家康公に対して武蔵国の治安維持と国境警備の重要さを指摘し八王子五百人同心の創設を具申して認められ旧武田家臣団を中心とした八王子五百人同心が誕生したが慶長4(1599)年には同心を倍に増員する事を家康公から許され八王子千人同心となった。

慶長5(1600)年、関ヶ原の戦いが起こると長安は忠次と共に秀忠公率いる徳川軍の輜重役を務めた。戦後、豊臣氏の支配下にあった佐渡金山や生野銀山等が全て徳川氏の直轄領になり長安は同年9月に大和代官、10月に石見銀山検分役、11月に佐渡金山接収役、慶長6年(1601)年の春に甲斐奉行、8月に石見奉行、9月には美濃代官に任じられた。これらは全て兼任の形で家康公から任命された。異例の昇進と言っても良く家康公が長安の経理の才能を高く評価していた事が伺える。慶長8(1603)年2月12日、家康公が将軍に任命されると長安も特別に従五位下石見守に叙任され家康公の6男・松平忠輝の附家老に任じられた。
7月には佐渡奉行に、12月には所務奉行(後の勘定奉行)に任じられ同時に年寄(後の老中)に列せられた。慶長11(1606)年2月には伊豆奉行にも任じられた。長安は家康公から全国の金銀山の統轄や関東における交通網の整備、一里塚の建設等の一切を任されていた。現在知られる里程標、即ち1里=36町、1町=60間、1間=6尺と言う間尺を整えたのも長安である。山がちであり各地に諸勢力が散在する封建日本でこうした着想があったのは幕府という統一的な行政機構の発足ゆえである。
一切の奉行職を兼務していた長安の権勢は強大であった。7人の息子を石川康長や池田輝政の娘と結婚させ忠輝と伊達政宗公の長女・五郎八姫の結婚交渉を取持ち忠輝の岳父が政宗となった事から政宗公とも親密な関係を築いていたので権勢や諸大名との人脈から天下の総代官と称され大久保忠隣と共に大久保派を幕府内に形成し家康公に寵愛され本多派を形成していた本多正信と初期幕政の権勢を巡り争い岡本大八事件で本多派に勝利し一時は幕政を牛耳った。この頃の長安の所領は八王子8000石(9万石)に加え家康公直轄領の150万石の実質的な支配を任されていた。

晩年に入り全国鉱山からの金銀採掘量の低下から家康公の寵愛を失い美濃代官を始めとする代官職を次々と罷免されていき更に正室が早世する等の不幸も相次ぐ中で慶長18(1613)年4月25日に卒中のために死去するが本多派の陰謀により大久保長安事件がでっち上げられ家康公の命令により長安の腐敗した遺体が掘り起こされ斬首され晒し首になる。

享年69歳。

産千代稲荷神社…八王子市小門町82番
 ↑大久保長安の八王子陣屋であった場所

東京都交通局早稲田自動車営業所青梅支所…青梅市森下町554番
 ↑長安が青梅の代官を兼務していた時の陣屋であった場所。

最終更新日:2012年10月03日

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