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長谷川宣以

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詳細 2014年10月18日 23:46更新

1745年 - 1795年

江戸時代の旗本。火付盗賊改方の長である火付盗賊改役を務めた。

幼名は銕三郎。
家督相続後は長谷川氏の当主が代々受け継ぐ名である平蔵を通称とした。

池波正太郎の小説『鬼平犯科帳』の主人公として、
日本の時代小説・時代劇ファンに知られている。

400石の旗本である長谷川宣雄の嫡男として生まれる。
母の名は不詳で、『寛政重修諸家譜』には某氏(農民・町人の女のこと)と記されている。

明和5年(1768年)12月5日、
23歳の時に江戸幕府10代将軍・徳川家治に御目見えし、
長谷川家の家督相続人となる。

時期は不明であるが旗本の大橋与惣兵衛親英の娘と結婚し、
明和8年(1771年)に嫡男である宣義を授かっている。

青年時代は放蕩無頼の風来坊だったようで、
「本所の銕」などと呼ばれて恐れられたと記録にある。

父の宣雄は火付盗賊改役を経て安永元年(1772年)10月に京都西町奉行の役に付き、宣以も妻子と共に京都に赴く。

安永2年(1773年)6月22日、宣雄が京都で死去。宣以は江戸に戻り、同年9月8日に30歳で長谷川家の家督を継ぎ、小普請組支配長田備中守の配下となった。

31歳で江戸城西の丸御書院番士に任ぜられたのを振り出しに、
39歳で西の丸御徒士頭、
41歳で御先手組弓頭に任ぜられ、
順調に出世していく。

火付盗賊改役に任ぜられたのは天明7年(1787年)、42歳の時である。

寛政の改革で人足寄場(犯罪者の更生施設)の建設を立案し、
石川島人足寄場の設立などで功績を挙げた。

しかし、この時上司である老中首座・松平定信に予算の増額を訴え出たが受け入れられず、やむなく宣以は幕府から預かった資金を銭相場に投じるという方法で資金を得る。

辣腕とも言えなくは無いが、当時の道徳的には認められるようなものではなく(現代においても、役人が国家予算を相場投機で殖やすのは認められるものではない)、
またこのような手法はかつての田沼意次を思い起こさせるようなものであり、
このため意次を毛嫌いしていた定信とは折り合いが悪かった。

定信は自伝『宇下人言』において敢えて名を呼ばず「長谷川某(なにがし)」とまで記し、功績は認めたものの「山師などと言われ兎角の評判のある人物だ」と述べたほどであった。また前述のように清廉潔白というわけでもなかったので『よしの冊子』(定信の元に集まってきた隠密情報を整理した文書)によると「長谷川平蔵のようなものを、なんで加役に仰せ付けるのか」と同僚の旗本たちは口々に不満を訴えたという。

寛政元年(1789年)4月、
関八州を荒らしまわっていた大盗、
神道(真刀・神稲とも書かれている)徳次郎一味を一網打尽にし、
その勇名を天下に響き渡らせる。

寛政3年5月3日(1791年6月4日)、
江戸市中で強盗及び婦女暴行を繰り返していた凶悪盗賊団の首領・葵小僧を逮捕、処刑した。

被害者に配慮し、逮捕後わずか3日で処刑している。

非常に有能だが幕閣(特に前述の定信)や同僚からはあまり信頼されていなかったようで出世はままならなかったが、的確で人情味溢れる仕事振りに庶民からは「本所の平蔵さま」「今大岡」と呼ばれ、非常に人気があった。

宣以も出世できないことを愚痴っていることもあったが「越中殿(定信)の信頼だけが心の支え」と勤務に励んでいたという。

寛政7年(1795年)、8年間勤め上げた火付盗賊改役の御役御免を申し出て、認められた3ヵ月後に死去した。

死の直前、11代将軍・家斉から懇ろな労いの言葉を受け、高貴薬「瓊玉膏」(けいぎょくこう)を下賜されている。

東京都新宿区須賀町の戒行寺に供養碑がある。

戒名は「海雲院殿光遠日耀居士」(かいうんいんでんこうえんにちようこじ)。長谷川家の家督は嫡子長谷川宣義が継いだ。

なお、長谷川宣以の住居跡には数十年後に江戸町奉行となる遠山景元が居を構えた。

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