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相良城

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詳細 2012年7月21日 10:25更新

天永三年(1112)、相良荘の荘司として土着し、土地の名を姓としたのは藤原遠江権守為憲の裔上総介周頼であったとされている。相良氏は鎌倉時代に入ると地頭として引続きこの地を支配したが、建久四年(1193)に周頼の五代目頼景は肥後国球磨郡(熊本県人吉市)に封ぜられ、相良氏の本拠もそちらに移ってしまった。
 それから時が移り、戦国争乱の時代となるとここ相良にも城が築かれるようになった。
 天正二年(1574)、高天神城を落とした武田勝頼はこの城を遠江攻略の最重要拠点として維持するためにその後、小山城、諏訪原城、滝堺城と築城整備を進めた。ここ相良城も高天神城への補給基地として天正四年頃に築かれたものである。萩間川河口の湊を利用して駿河から海路兵糧を
陸揚げして高天神城へ送るという兵站基地であった。縄張りは高坂弾正といわれているが、残念ながら現在その遺構を見ることはできない。
 天正九年(1581)、七年に及ぶ攻防の末、高天神城は徳川家康の手によってついに落とされた。ここ相良城もたいした抵抗もなく家康のものとなった。
 天正十四年(1586)、三遠駿甲信五ヵ国の大々名となった家康は武田の築いた相良城跡に鷹狩のための屋敷を建てた。相良御殿と呼ばれるものである。
 その後、相良は天領、掛川藩領を経て、宝永七年(1710)に三河伊保から本多忠晴が一万五千石で封ぜられて相良藩が立藩された。

 忠晴の後、忠通、忠如と続いて陸奥国泉へ移り、替わって板倉佐渡守勝清が延享三年(1746)に一万石で相良藩主となった。
 寛延元年(1748)、勝清は二万石に加増されて城主格となったために御殿跡を拡張したと云われている。翌年、勝清は上野国安中に移り、三河挙母から本多忠央が一万石で入った。
 宝暦八年(1758)、美濃国八幡藩の金森氏の事件連座により改易、替わって田沼意次が一万石で入った。
 宝暦十二年(1762)意次は一万五千石に加増され、明和四年(1767)には将軍家治の側用人となり二万石となった。城主格となった意次は将軍より築城を拝命して翌年から築城工事を開始した。
 相良御殿跡を本丸とした平城で、縄張りは潮田由膳、須藤四郎衛らが手掛けた。
▲ 二の丸跡の土塁。現在は小学校の校門に利用されている。
 明和九年(1772)、意次は老中に栄進して三万石となった。
 安永九年(1780)、相良城が完成した。
 意次は将軍家治のもとで幕政を取り仕切り、その権勢は栄華を極めたと云われ、その期間は田沼時代とまで呼ばれるに至った。所領も加増を重ねて五万七千石にまで達した。
 田沼意次というと賄賂政治家の代名詞のようになっているが、これは政敵であった松平定信らによってつくられた虚像であることは云うまでもない。残された意次の画像を見ると細面で怜悧な雰囲気を漂わせている。私腹を肥やす悪徳政治家には見受けられない。
 天明六年(1786)に将軍家治が死去すると十一代将軍には家斉が就いた。これを機に松平定信は上意をもって意次を罷免、さらに翌年には老中首座となり意次を蟄居に追い込んだ。そして田沼家を陸奥国下村一万石に移し、相良藩は廃藩、相良城は取潰しとしたのである。
 松平定信による幕政は「寛政の改革」として知られるが、そのことごとくが意次の政策に反するものであった。ここで具体的にその違いについて触れるつもりはないが、意次が革新的であり、定信は保守的であったとだけ記しておこう。
 天明八年(1788)一月、相良城の取潰しが開始され、一ヵ月後には「竜宮城」にたとえられた壮麗な城も地上から姿を消した。この年の夏、意次は江戸の屋敷で没した。
 それから五年後、松平定信失脚。さらに三十一年後の文政六年(1823)、将軍家斉のはからいにより、意次の四男で下村藩主であった意正が一万石で相良に復帰した。以後、破却された城跡に陣屋を構え、意留、意尊と続いて明治を迎えた。

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