渡辺仁
(1887−1973)
岡田信一郎同様、時代の波に足元をさらわれることなく、バランス感覚に溢れた仕事を続けた建築家。建築家として大成するには、辰野金吾や伊東忠太のように他にゆずらぬ圧倒的個性を発揮するか、岡田やこの渡辺仁、曾禰達蔵や横河民輔のようにマーケット主義に徹するか、いずれにしても中途半端に陥らないことが何より大切な鍵らしい。
渡辺仁は明治45年、東京帝国大学工科大学建築学科を卒業、すぐに事務所を開こうとしたが、父親の反対に遭って断念。鉄道院、逓信省と、まずは官に進んでいる。大正9年、前年の父の死去にともなって独立、渡辺仁建築工務所を開設、いよいよ自営建築家としてのスタートを切った。
幸運なことに、東京人であれば誰もが知る建物を、渡辺は三つ、その手によって実現させている。すなわち一に「東京国立博物館本館(昭和12)」、二に「第一生命相互館(昭和13)」、三に「和光−旧服部時計店(昭和7)」がそれである。さらにもしも現存していたならば、有楽町駅前の「日本劇場(昭和8年竣工・56年取壊し)」もこれに加わっていたはずである。こうして代表的渡辺作品を並べてみればわかる通り、その成し遂げた仕事のわりには、渡辺は今日無名過ぎる。
また、おもしろいことに渡辺は、その代表作のうち二作もが政治思想上の批判の的にされるという他にない境遇を味わった建築家でもあった。東京国立博物館本館は戦前の国粋思想におもねった「帝冠式」建築の代表とされ、第一生命相互館はその外貌が戦後になって、「ナチス風である」とされた。このうち前者は濡れぎぬであるが、後者は指摘どおりである可能性が高い。とはいっても、これをもって渡辺がドイツ・ナチスへの信奉者であったとするのは論が飛躍しすぎている。この建物におけるナチス風はあくまでヨーロッパ表現主義の一形態として渡辺が自らの様式カタログに採り入れていたものに過ぎず、それぞれの建築様式は、その背後にどういった歴史、思想が存在しようと、渡辺のような建築家にとっては「渡辺商店の商品のひとつ」であること以上には何らその意味を持ち得ない。
(東京の近代建築 より転用)
銀座の和光ビル、品川の原美術館等。