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オジー・スミス&ベースボール

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詳細 2024年3月4日 14:36更新

オジー・スミス(Ozzie Smith)とベースボール全般についてのコミュニティ

オスボーン・アール・スミス (Osborne Earl Smith、1954年12月26日生 右投両打 178センチ 77キロ)は、元メジャーリーグの選手で、サンディエゴ・パドレスとセントルイス・カージナルスでプレーした。アラバマ州モービル生まれ。広い守備範囲と華麗な守備で知られ、「オズの魔法使い」(The Wizard of Oz)の異名を持つ。平凡なゴロをもファインプレーに魅せる曲芸的なフィールディング。打球を捕ってから投げるまでの一連の動き、併殺プレーなど、どれをとっても天下一品。オジーのところへ打球が転がるたびに球場はどよめき、華麗な守備を見たいがために相手チームの打者さえ、ショートゴロを打ちたくなるとまで言われた。その守備でアウトにした捕殺数は8375はメジャーリーグレコードである。併殺記録は1590は2007年5月13日にオマー・ビスケルに更新されるも(2008年終了時点1698更新中) 史上最高のショートストップという呼び名が充分に相応しい選手である。

子供の頃の憧れは郷土の生んだ大スターのハンク・アーロンであった。(ビデオで見たことあるが本人はアーロンのプレーはあまり見たことないと語っていた。)アーロンのようなHR打者に憧れていたものの、なかなか体が大きくならないことから、自らを守備で生かそうと思うようになってきた。幼い頃から「ワンマン・ベースボール」で遊んだ。屋根に放り投げ戻って来るボールを捕る。最初のグラブはスーパーの紙袋だった。目をつむったまま空中に放り投げ捕球できるようになった。好守は「あれが原点。」という。「あの頃からいずれメジャー・リーグでやりたいと夢が広がっていった。」
その後、ロサンゼルスに引っ越し、高校時代には後に殿堂入りすることになるエディー・マレーとチームメイトとしてプレーした。そして、俊敏な動きが認められ、1977年のドラフトでパドレスから4位指名を受けてプロ入りを果たした。

1978年にサンディエゴ・パドレスでメジャーリーガーとしてデビューを果たし、その守備で早くもパドレスのショートストップの座を自らのものにしていた。内野陣が手薄だったパドレスの中で、オジーの守備は注目を浴びた。オジーが「オズの魔法使い」と呼ばれ始めたのはこの頃からだった。しかし、華麗な守備でチームを救う一方、打撃の非力さが目を引いたのも事実である。1978年は打率.258、1979年は打率.211と目を覆いたくなるものだった。

しかし、守備では常に力を見せた。1980年は遊撃手として621捕殺というメジャーリーグ記録を樹立し、自身初のゴールドグラブ賞を受賞する。この捕殺数は1924年に往年の名ショートストップ、グレン・ライトの持つシーズン601捕殺という記録を塗り替える快挙でもあった。その守備はもはや神業であり、ショート最深部、というよりほぼレフト前くらいのゴロをノーバウンドジャンピングスローでアウトにしたり、ダイビングしながらイレギュラーバウンドを素手で処理したりと常識では考えられないものだった。打撃と違って守備は正しく評価すべき軸を持っていない。守備率なのか守備機会なのか、あるいはダブルプレーの数なのか。打球に追いつかないからエラーにならない、追いつけたからエラーになった。ランディ・ジョンソン、カート・シリングがいた頃のダイヤモンドバックスのように三振かポップフライで仕留める投手の多いチームもあれば、グレッグ・マダックスが全盛の頃のブレーブスのように内野ゴロで仕留める投手の多いチームもある。どのチームに所属するかによっても守備機会の数は違ってくる。守備ばかりは数字では語りきれない部分が多いのも事実だ。ところが、こればかりは「すごい」とうならざるを得ない数字が捕殺数621である。少し前の守備の名手といえばレイ・オルドネスに現役ではオマー・ビスケルで異論を唱える人はいないだろ。オルドネスは150試合出場したシーズンに452の守備機会を作り出した。そしてビスケルは155試合の出場で475の守備機会を作り出した。オジーの守備機会621とは158試合に出場して、たたきだしたとてつもない数字である。これはオルドネス、ビスケルが1試合平均3回の守備機会があったのに対し、オジーは4回の守備機会があったということだ。おそらく毎試合1本のヒットをアウトにしてしまったのではないだろうか。ちなみに95年にナリーグでゴールドグラブ賞を獲得したバリー・ラーキンの守備機会は131試合で342機会。オジーの半分くらいという事実である。特にオジーの守備は一般常識を軽く越えたものだった。打球に対する入り方が普通では考えられないものであった。ショートの前に高く弾んだ打球に対し、オジーはシロートのようなタイミングで入っていく。高く弾んだ打球に対するセオリーは、打球が地面につく寸前か、ショートバウンドで打球を処理する、というものである。それをハーフバウンドで抑えてしまっていたのだ。それだけ身のこなしが軽く、グラブさばきが柔らかかったといえるだろう。平凡なゴロをもファインプレーにしてしまう所以だろう。621という驚異的な守備機会。今後破るような選手は現れないのではないだろうか。
また、この1980年は57盗塁も記録するなど、守備と走塁で大きくアピールもした。以後ゴールドグラブ賞を獲り続けることになる。

オジーにとって転機を迎えたのは1982年の、セントルイス・カージナルスへの移籍だった。当時カージナルスを率いていたホワイティ・ハーゾグ監督が、オジーの守備力に目をつけ、当時本拠地にしていた広い人工芝球場であるブッシュ・スタジアムではプラスになるとの判断あってのものだった。オジーの交換相手はギャリー・テンプルトンという好打のショートストップ。オジーはこの移籍に非常に落胆したがハーゾク監督はオジーの守備を「年間50〜75得点ぐらいは食い止めているはずだ」と高く評価。多少の攻撃力の犠牲もハーゾグには計算済みだった。ハーゾグ監督との出会いはオジーにとって非常に大きかったと言える。移籍1年目にして内野守備の中心となり同年、カージナルスをワールドチャンピオンに導く原動力となった。その後も1985年、1987年とワールドシリーズに出場。またホームゲームでは毎年200万人以上と観客動員にも大きく貢献した。「同じポジションで彼より凄いという選手を見たことがない。何が凄いと言えば、オジーのプレー以上のものを見るのは不可能だからだ。」とハーゾク監督も語った。

カージナルスの内野を鉄壁の守備陣に変え、ゴールドグラブ賞はもはやオジーの指定席となっていた。守備に磨きをかける一方、打撃力向上に向けて、ウェイトトレーニングにも積極的に取り組むようになり、打率も2割台から徐々に上がっていき、それが大きく実ったのは1985年のポストシーズンのことである。地区優勝を果たし、ドジャースとリーグ優勝をかけて戦っていたシリーズ第5戦、2対2で迎えた最終回、オジーは左打席から劇的なサヨナラHRを放った。スイッチヒッターのオジーが左打席でHRを放ったのはこの時が最初で最後というほどの珍しいものだった。オジーはこのシリーズで打率.435を記録し、シリーズMVPも受賞し、カージナルスのリーグ優勝に大きな貢献をもたらした(しかし、ワールドシリーズでは惜しくも敗退)。
1987年には自身最高の打率となる.303をマークし、2塁打も40本記録するなど「守備だけの選手」という評価を完全に覆した。しかし、同年、肩の故障で守備力が低下すると懸念されたが、クイックスローを猛練習の末に会得して、それをカバーした。そして、オジーの1988年時の年俸234万ドルは、メジャートップの稼ぎでもあった。守備が目立つ選手でありながらも、球界最高年俸をもらったのは後にも先にもオジーのみである。この頃オールスターのファン投票でもア・ナ両リーグを通じて最高得票選手にも輝いている。晩年は怪我に苦しむが、多くのファンがオジーを放っておかなかった。オールスターに選出されたのは15回あるが、ファン投票による選出は、そのうちの12回を数える。94〜96年は試合出場も減ったのに関わらず選出されているのはファンの支持があったのに他ならない。

1991年には151試合の出場でエラーはわずか8個という安定感を見せ、1992年まで13年連続でゴールドグラブ賞を受賞したが、これは遊撃手として史上最多で、メジャーリーグでもグレッグ・マダックス(投手)の18度、ブルックス・ロビンソン(三塁手)の16度に次ぐ記録である。

シーズンの開幕戦と閉幕戦で、ショートの守備に付く際、バック転を見せていたオジーも1996年6月、現役引退を正式に発表。各遠征先ではさながらオジーの送別試合となり、数多くの記念品が贈られた。この年の最終戦において、自らのバック転でメジャー19年間のキャリアを締めくくったオジー。“最終打席”は凡打に終わったが、観客はいつまでも温かい拍手を送り続けた。通算2460安打と通算580盗塁をマークした。これが“守備の人”の成績だろうか。82年のワールド・シリーズ第4戦(対ミルウォーキー・ブルワーズ)の2回表、オジーは2塁塁上にいた。トム・ハーのセンターへの大きな犠牲フライで、3塁ランナーが返ったが、オジーも2塁から一気に生還して俊足ぶりを披露した。ハーはワールドシリーズ史上唯一(2007年終了時点)の「二点犠飛」を記録した。さらにショートとして史上3位となる2511試合に出場した点も見逃せない(ちなみに史上1位はオマー・ビスケルの2654試合で2008年終了時最多記録を更新中。史上2位はルイス・アパリシオの2583試合)。

2002年には資格1年目にして野球殿堂入りを果たした。「殿堂入りする選手は一般に、ボールを球場の外へ運べるような選手。わたくしの殿堂入りがわたくしと同じように守備でチームに貢献する選手に道を開くことにつながればと願う。」そして「グラブは私に多くのものを与えてくれました。でもそれ以上に大切なのは心です。全国の少年少女のみなさん、どうか夢を描いてください。夢は必ずかないます。」と右手に自身のニックネームとなった童話「オズの魔法使い」を携えてあふれる涙をハンカチでぬぐいながらの受賞のスピーチであった。
現役を多く過ごしたカージナルスでの背番号「1」は1996年の現役引退とともに永久欠番に指定されている。


ゴールドグラブ賞13回(1980〜92)
オールスター出場15回(1981〜92,94〜96)

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