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越後赤田城◇城主・越後斎藤氏

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詳細 2023年6月24日 16:54更新

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越後上杉家家臣、斎藤朝信公の居城であります。
(越後の鍾馗)

所在地 : 新潟県刈羽郡刈羽村大字赤田町方字城山
http://www.hb.pei.jp/shiro/echigo/?c=nigata-kariwa-gun
地図
http://www.mapion.co.jp/m/37.409782_138.657406_8/

http://blogs.yahoo.co.jp/aganohito/13222829.html
赤田町方に、赤田城と赤田古城があり、赤田城は赤田古城とは600mはなれている。赤田町方集落より約30分位登ればこの城跡につく。この赤田城の城主は、斉藤下野守である。斉藤下野守昌信は、後に定信と改めているが、この「定」の一字は、上杉兵庫頭定実より賜ったものである。 刈羽郡案内には、「斉藤氏は、藤原利仁将軍の曽孫斉藤為時、その子為頼、実盛その末孫斉藤下野守朝綱上杉氏に仕え、当赤田に住し三千貫の地を領す。その子孫に篤影、朝信、直信等あり、云々」と述べられている。この斎藤氏は藤原より出て、鎌足より8代を経て、敍用に至り斎宮頭(伊勢神宮いつきのみや)に補された。その後斉藤を姓としたものであるらしい。その後子孫斉藤下野守昌信(後に定信と改名)に至り、上杉民部大輔房能(山の内上杉傍系)に仕え、赤田城主となったのである。世に赤田千挺槍と称し、上杉4家老の一人であった。以来、謙信公に属し、しきりに戦功があったと言う事である。定信には子がなく、石川備後守為元の二男朝信を向かえ入れた。朝信の幼名は藤丸といい、母は、南魚沼郡六日町坂戸城主、長尾政景の妹である。朝信は、謙信、景勝の二公に仕え、上士七手組の隊長となり、鬼斉藤と言われ、武勇抜群、勲功も又大きかった。朝信は、政務も華ね、定信と同じく上杉4家老の一人であった。天正12年(1584)織田氏の来攻に応じ、柴田勝家、森長可が大軍を率いて越中魚津の城を襲ったとき、朝信は特命を受け、山浦源吾と軍勢数百をもってこれに向かった。しかし城はすでに落ち、魚津の城外に於いて、同年5月25日恂じたのである。朝信の死後、その子乗松丸が後を継ぎ、景勝に持ちいられ、景勝の一字を賜り、三右衛門尉景信と称した。慶長2年(1597)1月景勝が秀吉の命で会津に移封の際「病気の為お供つかまつらず」「赤田城在番かなわず」の理由で録を離れた。後村上に住み、村上の城主堀直寄の封について300石を受ける事になり、慶長2年赤田城は廃城となった。(刈羽村物語より)

http://zyousai.sakura.ne.jp/mysite1/kariwa/akada.html
築城時期は不明。城主斎藤氏は室町期、越後守護職上杉氏の被官として登場するものの出自は不明。一説には上杉氏が越後に入封した際、奉行人に任じられ支配下に組み込まれた在地領主と思われます。斎藤氏の初見は寛正2(1461)年、赤田北方に東福院(当時は洞福院)を建立した斉藤下野守頼信が最初で、頼信は文明10(1478)年に守護職上杉氏の奉行人として名前が残っています。

http://outdoor.geocities.jp/kojyo_annai/5_hokuriku/20_niigata/akata_shiro.html
北陸自動車道「刈羽PA」傍の73号線で南に向かい73号線が直角に曲がる辺りを更に南下して東福院を目指す。東福院手前で赤田城駐車場が有りここに停めると傍に「赤田城址遊歩道案内図」が有りここ北方口から登る。本丸まで40分と書いてあるが半分の20分で到着する。

http://www.geocities.jp/castlejinmasa/akadajo.html
赤田城は刈羽村曾地峠入口に位置する標高154mの独立峰に築かれた山城である。赤田城は上杉謙信・景勝の家臣として活躍した斎藤下野守朝信(とものぶ)の居城であった。
赤田古城は赤田城の南800mにある標高156mの山城で,、赤田城の砦群の一つであった。地元では斎藤氏以前の赤田氏の居城であると伝えられているが、縄張り・普請など、遺構の状態からみると、戦国時代の城跡と思われる(「日本城郭大系7」から)。

http://blogs.yahoo.co.jp/kagetora_nagao2007/28389121.html
慶長3(1598)朝信の嫡男「昌信」が、上杉景勝の会津転封に同道し赤田城は廃城となりました。

http://d.hatena.ne.jp/mirainodaifugoo/20080828

御館の乱/旗持山と赤田城

上杉謙信が春日山で死去したのは天正6年(1578年)3月13日である。
死因は現在の脳卒中説が有力とされる。
その跡目を狙って骨肉の争乱が起こった。
謙信には子供がなく、三人の養子、上杉三郎景虎(小田原北条氏康七男)と上杉喜平次景勝(謙信の姉、仙桃院の次男)と、もうひとり、能登七尾城八代畠山義続の子、義春(上条城主)がいたが、死後、春日山本丸の所蔵する大量の金を目的に景勝の擁力派が機先を制し、二の丸の上杉景虎を攻撃したのが事の起こりである。
頭上を奪われた景虎は前関東管領、上杉憲政のいる御館(城)に立てこもり、春日山城に対抗。乱は四期に渡る。

一期は天正6年春(1578年)愛宏山の攻防戦。

二期は同年6月から8月で北条(喜多条)軍・関東勢(南衆)による国境の攻防戦に加え、景勝が武田勢に多額の金を提供し、また、菊姫(勝頼の妹)との結婚を約して、武田勢を手中にし、情勢を優位に変えるまで。

三期は同年秋(9月から11月)の北条景広の上府(御館)と旗持山の攻防で、北条景広勢は米山峠を越えて御館に入った。
10月には旗持山城を攻めるも、景勝軍の佐野清左ヱ門に阻まれ、帰陣に至ったのである。

四期は同年初冬12月から天正7年(1597年)3月の冬期の御館と春日山を中心とした交戦になる。

御館の乱で、景勝側の城主は上条城、安田城、赤田城、黒滝城、米山寺城、猿毛城であり、特に赤田城は景虎を滅ぼした景勝が長岡、三条の攻撃にも斉藤朝信に協力を求めており、「刈羽郡内の六カ所を除く総てと、大澄(大積)の神余(かまなり)領を朝信に与え、乗松丸に北条一跡を与える」と云う約束をしている。

■ 智将・直江兼続の居城
.  - 与板城 (よいたじょう Yoita-Jo)
http://www.asahi-net.or.jp/~ju8t-hnm/Shiro/Hokuriku/Niigata/Yoita/index.htm

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2011年11月21日

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