生没、1868.7.16〜1904.3.27。
出身、現・大分縣竹田市。
最高位、海軍中佐(1階級特進)
日本國初の「軍神」として神格化。
日本人の模範・鑑と讃えられる。
1877年、西南戦争で豐後竹田の
自宅消失し、飛騨高山に転居。
1894年、日清戦争従軍。
1895年、大尉昇進。
1897年、露國留学。
1900年、少佐昇進。
1902年、帰國。
1904年、日露戦争に於いては
『旅順港・閉塞作戦』に従事。
第2回閉塞作戦では「福井丸」指揮。
撤退時、行方不明となった部下を
救助する為、船内を3度捜索するも
救命ボート上で頭部に露軍の砲弾が
直撃し戦死。即日、中佐に昇進。
1910年、帝都・旧万世橋駅前に
銅像建立(戦後、GHQにより撤去)
1935年、竹田市に「廣瀬神社」創建。
また、直撃を受けた際に近くの
兵士側に飛散した肉片の痕跡残る
帽子は、靖國神社「遊就館」収納。
他、高山市内「飛騨護國神社」と
「城山公園」にも廣瀬中佐銅像有。
生涯独身、遊廓や社交界にて
交際する事皆無。デイトに於いても
部下への体面から手出しせず。
其の禁欲的な身の処し方から
「神洲男子数有れど、男子の内の
真男子。(世界に示す鑑)とは、
廣瀬中佐の事ならん」と、唱歌。
1912年、尋常小學唱歌「廣瀬中佐」
轟く包音(つつおと)飛来る弾丸。
荒波洗ふデッキの上に、闇を貫く
中佐の叫び。『杉野は何処に、
杉野は居ずや』船内隈無く尋ぬる
三度(みたび)。呼べど答へず、
捜せど見へず。船は次第に波間に
沈み、敵弾いよいよ辺りに繁し。
今は、とボートに移れる中佐。飛来る
弾に怱ち失せて、旅順港外恨みぞ
深き。軍神廣瀬と其の名残れど。