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男§小林 繁§魂

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詳細 2015年2月14日 22:38更新

巨人・川上哲治監督の目に留まり、1973年のシーズン終盤にいきなり一軍昇格。特に1973年10月11日の巨人vs阪神タイガース第25回戦(後楽園球場)で、10対10の同点の9回表に登板し、阪神打線を三者凡退に抑えて引き分けに持ち込む奮投を見せ、巨人のセントラルリーグ9連覇に僅かな望みをつなぐ結果を出した。その後に巨人は最終戦で9連覇を達成するが、小林のこの奮投が9連覇達成のキーポイントになったと評価された。

2年目の1974年に8勝を挙げ、堀内恒夫・高橋一三の後継者として頭角を現す。低い重心の独特の投球フォームから鋭い変化球で打者を詰まらせるサイドスロー投手として活躍した(ダイナミックに首を振り回すため投球時に帽子がよくグラウンドに落ちていたが、本人はこれを調子の良い証としていた)。1976年から2年連続で18勝を挙げ、エース投手として優勝に貢献した。1977年に沢村栄治賞(沢村賞)を獲得。

1978年11月に起きた『江川事件』(『空白の一日』の言葉で知られる)の犠牲となる形で、1979年2月に江川卓との交換トレードで阪神タイガースに移籍(詳細は当該項を参照のこと)。移籍1年目は22勝で最多勝利、2度目の沢村賞を獲得。特に古巣・巨人に対しては8勝0敗の成績で神がかり的な強さを発揮し、巨人キラーとして活躍、古巣に「巨人のエース」の貫禄を見せつけ脅威の存在となる。かつセーフティバントを狙って左打席に立つなど気迫を見せた。また、巨人時代の1976年から現役最終年となる1983年まで8年連続で2桁勝利を記録した。

1982年オフ、突然「来年15勝できなければ野球をやめる」と宣言。翌1983年は13勝と2桁勝利を挙げるが宣言に届かず、また、肩の故障で思うような投球ができないとして、31歳にして現役を引退した。同年6月25日の中日ドラゴンズ戦(阪神甲子園球場)において、9回二死の場面で大島康徳に投じたシンカーを同点2ラン本塁打され、これが引退を決意させる。「今まで抑えてきた球を打たれ衰えを感じた」という[1]。

1982年の横浜大洋ホエールズとの開幕戦において、打者高木由一への故意四球(敬遠)が暴投となったせいでサヨナラ負けを喫している。「敬遠暴投によるサヨナラ負け」は、1952年に金田正一が記録して以来、2例目であった。このことから、「暴投サヨナラ小林」と野次られるようになった(但し、この年に小林が記録した暴投はこの1つだけ)。現役時代の背番号は巨人、阪神時代ともに「19」が一般的に知られている。FA制度もなかった当時では、巨人、阪神という人気球団の両方でエース級を務めたのは珍しい事である。

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